士(サムライ)の思想: 日本型組織と個人の自立 (ちくま学芸文庫)
世界に類をみない日本の役所や企業の慣習に、稟議がある。たとえば役所の法案は課長補佐が起案し、課長が関係各課と調整して稟議書を回し、局長が政治家に持って行く。公式の職階では最下層の官僚からボトムアップで意思決定が行なわれ、事務次官まで上がったときは拒否できない。

これは江戸時代にできた制度だが、なぜこういう奇妙な意思決定が行なわれるのかを、著者は『主君「押込」の構造』で説明する。主君押込とは暴君を家臣が座敷牢などに幽閉する(あるいは逆に改革派の大名を守旧派の家臣が幽閉する)慣習で、著者が発見したものだが、その後の研究で意外に多いことがわかってきた。

しかしこういう「事件」になることはリスクが大きいので、あらかじめ合意形成するため、たとえば裁判に関する制度は町奉行が起案し、多くの関係者が稟議書に署名捺印して、大名が最終的に決定した。これはきわめて民主的で紛争は少ないが、意思決定が行政の中で完結する行政一元構造で、部分最適になりやすい。今でも法案は閣議決定されたら終わりで、国会は文句をつけるだけだ。

このシステムができた原因は、ほぼ同時期のヨーロッパには国王と封建領主の対立があり、領主が国王を法的に拘束する立法機関としての議会ができたのに対して、日本にはそういう対立がなかったので、行政の内部で処理する稟議になったのだという。
議会とは似て非なる稟議

「家」システムは在地領主としての武士の統治構造として鎌倉時代から続いてきたが、ここでは各大名の支配は自律性が強く、幕府は大名の統治を「安堵」して正統化し、彼らをゆるやかにまとめるとともに紛争を処理する機関だった。これは同時代の神聖ローマ帝国やオスマン帝国とあまり変わらない。

ただ室町幕府の支配がゆらぐと戦国大名の戦争が激化し、こうした家をもう一つ上のレベルで統合する「天下統一」が必要になった。それを実現したのが織田信長だったが、彼は暗殺されたため、その後の徳川家康は全国を統一しないで秩序を凍結した。このとき各「家」を自己完結的な単位として人の交流を止めた。

このため大名家(藩)は、終身雇用のきわめて流動性の低い組織になり、紛争をすべて内部で処理するようになった。議会制度では党派的な紛争が起こり、妥協や交渉が必要になるが、行政一元システムでは問題が内部でスムーズに処理できる。しかも現場の意思が反映されやすいので自発性が高く、士気が保てる。この意味では、武家の意思決定は「個」としての主体性を尊重するものともいえよう。

幕末の危機に対応する上で、この方式は有効だった。ヨーロッパの侵略を清は全面的に拒否し、戦争で敗北して滅んだが、徳川幕府は柔軟に対応した。現場の目付方や勘定方などの下級武士が彼我の戦力の圧倒的な違いを認識し、それを老中に伝えたからだ。明治維新を実現したのも薩長の下級武士であり、天皇は徹頭徹尾「みこし」だった。

本書はこのように幕藩体制の柔軟な構造が維新を可能にしたことを肯定的に評価しているが、それは明治以降、失敗の原因ともなった。特に陸海軍の意思決定が現場の中間管理職によって行なわれるため、関東軍の参謀が勝手に戦争を始めるなど「下剋上」が頻発し、命令系統が混乱した。

他方で、全員が同意するまで決めない稟議は、超民主的な意思決定システムである。戦後、占領軍が来たとき、日本人が天皇陛下万歳から一転してマッカーサーに何万通も感謝の手紙を出すようになったのは、単なる付和雷同ではなく、日本社会にもともとデモクラシーの伝統があるからなのだ。むしろ天皇を主権者とする(一神教をまねた)明治憲法が、日本社会の民主的な構造には合わなかった。

稟議書は現在の日本企業にも残っており、江戸時代と現代の連続性を示す証拠である。これに代表される日本独特の意思決定システムが、日本の企業や政治の成功と失敗の大きな原因になっている。