人と人との間―精神病理学的日本論 (弘文堂選書)
国会のプロレスごっこを見ていて、土居健郎『甘えの構造』を思い出した。これは全共闘運動のころ書かれた本だが、暴力学生は秩序を破壊するようでいながら、それを全面的に否定するわけではない。いわば子供が父親に甘えて反抗しているようなものだ。今の万年野党も、そういう「子供の時代」の象徴だ。

土居の本はこういう日本人の病理をフロイトの古い精神分析で論じるのだが、それを現象学などの「他者理解」の手法を使って分析したのが本書(絶版)だ。
罪の意識と恥の意識

日本社会のコアになっているのは、ヒトラーのような権力者ではなく、著者が「あいだ」と呼ぶ人間関係である。人々はつねに他人との距離をはかり、「間の取り方」に気を使う。居酒屋で遅くまで話し、携帯電話でひっきりなしにメッセージを書く。それは単に交友関係を深めるだけではなく、社会の中の自分の位置を確認しているのだ。拙著『「空気」の構造』(p.41以下)から引用しよう。
一般にメランコリーの患者は几帳面で責任感の強い人が多いが、西洋人の場合はそれが道徳的な罪悪感という形をとるのに対して、日本人の場合は「**さんに申し訳ない」というように具体的な人間に対する借りのような形をとり、その原因は義務に違反したことより「人情」によるものが多いという。

西洋における義務や道徳の拘束力の主体となっている「神」という絶対者から神性を奪って、これを人の頭上高く掲げるのではなく、人と人の間という水平面にまで下してみるならば、西洋の義務と道徳の概念は、そっくりそのまま、日本の義理と人情の概念でもって置きかえることができる。義理と人情というのは、このように人と人の間ということを最高律法者とするような、義務と道徳なのである。

日本におけるメランコリー親和型の人は、人前で体面を傷つけられるような状況に陥ることを極度に恐れる人で、必ずしも「人情に篤い」人ではないという。彼にとって重要なのは世間の「空気」であって、愛情や親しみではないのだ。日本語でいう義理と人情の違いも、こう考えるとはっきりしてくる。外面的な体裁を考えて従わざるをえないのが義理で、心からそう思うのが人情だから「義理と人情の板ばさみ」も起こるのだ。
 
同じような傾向は神経症にもみられ、日本人には赤面恐怖症、醜貌恐怖症、視線恐怖症、自己臭恐怖症といった「対人恐怖症」が目立って多い。日本人は「罪の意識を一種の恥の意識として、『人と人の間』という水平的な場所で見てとるという傾向をもっている」。それは神との「垂直的な結びつき」を基本とする西洋人の精神病や神経症とはかなり異なった症状をもたらすのである。
 
このように日本人の倫理が外面的で、絶対的な罪の概念がないという点はベネディクト以来、論じられている。[…]日本人の思考の基礎にあるのは個人主義ではなく、かといって集団の目的にメンバーが従属するという意味の集団主義でもない。人々の行動を制約するのは、それ自体は実体のない「あいだ」である 。彼らを一段高いところで統合する神や国家のような存在は意識されず、むしろそれも人間関係の一部として利用される。

このような丸山の言葉でいえば特殊主義的なコミュニティが、神経症や精神病にも反映している、と木村は考える。これは日本人に特徴的な病理だが、西洋人にもこういう症状がないわけではない。むしろ西洋人に強い「…すべきでなかった」といった形であらわれる罪の意識は、自分を見ている他人の存在を神として抽象化したもので、日本人のように具体的な対人関係を意識するタイプのほうが原初的ともいえよう。

こうした人間関係の葛藤が道徳感情の起源だが、それが言語や文化の異なる民族に共有されるためには、キリスト教的な唯一神として抽象化される必要がある。ところが日本人の場合、そういう大きな「社会」の生まれるのが非常に遅かった(明治以降)ため、社会を抽象的な対象としてとらえる習慣がなく、目に見える人と人の関係の集合としか見ないものと考えられる。

このような国家でも個人でもない「社会」の概念が生まれたのは、近代ヨーロッパに固有の現象である。イギリスでは17世紀にホッブズが「社会契約」という言葉を初めて使ったが、フランスでは18世紀にルソーが、ドイツでは19世紀初めにフィヒテが国民という言葉を使った。

このように人間関係を契約のような非人格的ルールとして固定することによって予見可能性が増し、つねに「あいだ」を調整するコストが軽減できる。契約の発達しなかった日本では逆に、人間関係を調整するコストを下げるために集団の規模を「家」に制限し、メンバーを固定するしくみが発達した。

これは先験的にはどちらがいいともいえないが、非人格的ルールがスケーラブル(規模が大きくなっても変わらない)のに対して、人間関係に依存するルールはスケーラビリティがなく、大規模になると複雑化して破綻するので、現代社会には向いていない。