石橋湛山論―言論と行動
石橋湛山といえば、戦前は植民地を放棄する「小日本主義」をとなえ、戦後は護憲論を主張した平和主義者ということになっているが、これは誤りである。本書は彼の公刊された評論だけでなく、日記や未定稿などを丹念に読み、「自立主義者」としての石橋を描く。

特に一般のイメージと違うのは、戦後の政治家としての石橋である。彼は蔵相としてGHQの経済政策に反対したため、公職追放されたが、その間も『東洋経済新報』で評論活動を続けた。その未定稿には、朝鮮戦争について次のような記述がある。
日本を米国の強力な味方にしたければ、日本に完全な独立を与え、一切の束縛を解くべきである。米国は日本に兵器および資材の強大な援助を与え、日本の陸海軍を再建させなければならない。日本の憲法第2章[第9条]はこの場合、例えば「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」というような期限をつけて、しばらく効力を停止する。
彼は吉田・ダレス会談の前に吉田に対して出した意見書(非公開)でも「日米を中心とする東亜国際軍」の創設を提言し、憲法を改正すべきだと書いている。当面は再軍備を先送りして米軍の駐留を続けるという吉田の方針に対して、「いつまでも日本の国防を米国に頼るのは好ましくない」と、独立と同時に再軍備を行なうことを進言したのだ。
戦前から一貫した経済合理主義

戦前の石橋の小日本主義はよく知られているが、それも単なる平和主義ではなかった。1912年の「大日本主義の幻想」という評論で、朝鮮・台湾・満州への輸出額の合計が9億円なのに対して、対米貿易だけで14億円にのぼることを指摘し、日本のもっとも重要な貿易相手国は英米だと指摘した。

おまけに過剰人口の吸収といっても人口の1%余りで、朝鮮や満州を併合する「大日本主義」は経済的に失敗だと断じ、「大日本主義を棄てるのは、決して国土を小にするの主張ではなくして、却って之を世界大に拡ぐるの作である。ためではなく、日本の経済的利益の源泉を全世界に拡大するためだ」と論じた。

具体的には、すべての植民地と海外権益を放棄し、「英米白人帝国主義」を排して被抑圧民族の自立を助ける、というものだった。これはそれほど過激な主張ではなく、第一次大戦後の幣原外交の軍縮路線とも一致するものだった。国土の狭い日本の経済発展の道は、ブロック経済を排して自由貿易を拡大するしかない、という経済合理主義が石橋の基本思想だった。

しかし1931年の満州事変のあと、彼の論調は変わる。満州国の設立を「甚だ不自然」としながらも、「乗りかかった船」だとして、満州から撤兵する一方で、資本輸出をすべきだと主張した。しかし関東軍が南下し始めると、熱河侵攻を支持し、国際連盟の脱退も支持した。

この背景には、国内が混乱していた中国が統治能力を失っており、日本が華北を経営すべきだとの考えがあったが、戦線を中国全土に拡大する日中戦争には反対し、日独伊三国同盟にも反対した。「大東亜共栄圏」も否定し、日米開戦にも反対したが、当時すでにそういう言論活動は許されなかった。

このような戦時期の石橋の言動は「時局への屈服」とみられることが多いが、彼が清沢冽に出した手紙では、日本の敗戦を必至とみて「戦後構想」を考えるように依頼している。中国については、軍閥が割拠して自治能力がないとみていた。

要するに石橋にとっては、個人も国家も自立が最大の問題で、その条件を満たしていない中国は国家の体をなしていないと考えたのだ。この点で満州や北支までは資源があるので経済的に自立できるので、それを日本が開発すべきだと考えた。

憲法改正論から平和外交へ

戦後も、石橋の経済合理主義は一貫していた。非戦論者だった彼がGHQに公職追放されたのも、吉田内閣の蔵相として占領軍の費用負担が国家予算の1/3を占めることを批判したためだったが、これには吉田茂が関与していたともいわれる。アメリカべったりの吉田の方針に対して、石橋がたびたび抵抗していたからだ。

1951年に公職追放が解除されてからは、鳩山一郎の自由党の幹部として打倒吉田の急先鋒となる。このときは石橋も鳩山や芦田均など多くの政治家と同じく、第三次世界大戦の危機が迫っていると考えていた。

彼らは「朝鮮戦争は大戦にはなるまい」という吉田の認識は甘く、日本の再軍備が緊急に必要だと考えていた。これは一般世論も同じで、1951年の世論調査では「再軍備のために憲法を改正する」ことに賛成の意見が68%を占めた。

講和条約のときは石橋も吉田内閣の多数講和・安保条約に賛成したが、憲法改正が必要だと考えていた。これは吉田も同じだったが、当時の経済状態では再軍備は時期尚早と考えたため、憲法問題は先送りして米軍に防衛を代行してもらうことにしたのだ。これに対して石橋は、衆議院本会議で「自衛隊をつくろうという場合には憲法改正の必要がある」と質問している。

こうした石橋の強硬な再軍備論が鳩山自由党を牽引し、1952年の総選挙では再軍備が最大の争点になったが、左右の社会党が議席を伸ばし、改憲勢力は2/3を取れなかった。この一つの要因は、方針のゆれていた右派社会党が全面講和・護憲に舵を切り、左派とほとんど同じになったことがある。55年には左右社会党が合同し、自由党と民主党が合同して55年体制になったが、この膠着状態は90年代まで変わらなかった。

その後、石橋は首相になったが病気のため短期間で引退した。岸首相が安保改正・改憲路線をとるとそれを牽制するような憲法擁護の発言もするが、その場合も「第9条の一時停止」という条件をつけている。60年代には「日中米ソ平和同盟」という構想を提唱したが、これはのちの日中友好の先駆ともいえよう。

一般にはこの引退後の60年代の平和外交のイメージが強いが、石橋は一貫して再軍備・改憲論者だった。他国の善意に期待して平和を守ることはできないという合理主義は、戦前の小日本主義から戦後の日中米ソ平和同盟などの提案まで変わらなかったのだ。