聖母の博士と神の秩序: ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの世界
ニーチェは19世紀末に「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、そのうち100年は彼の予言は正しかった。しかし21世紀になってから、ニヒリズムの亜流であるポストモダンはすっかり飽きられ、「ポストモダン後」への模索が始まっている。

思弁的実在論はその一つだが、これは今のところヒュームの問題のような科学的実在に限られ、その論証にも問題がある。特にカントールの集合論で実在論を説明するのは、一昔前に流行したゲーデルの不完全性定理でデリダの脱構築を説明するのと同じ「知の欺瞞」である。推論の無矛盾性によって、存在について何もいうことはできない。

本書は実在論の元祖ともいうべき中世の神学者ドゥンス=スコトゥスの解説だが、ポストモダン後の実在論にもヒントを与えているような気がする。彼の問題は、多くの個物(述語)からどうやって唯一の実在(主語)を導くことができるのか、という実在の一義性だった。

その一義性は経験的に確かめられるもので、それが聖書に書かれているかどうかは無関係だ。たとえば天動説も地動説も聖書には書かれていないので、地動説の一義性を証明するには、それに例外がないことを示せばよい――とスコトゥスは考えた。

このように例外のない法則を示すことで普遍的実在(神)を証明するという発想は、キリスト教からしか出てこないものだが、その普遍性の根拠を聖書ではなく感覚的な経験に求めたことが、彼の独創だった。この意味で本書もいうように、近代科学の元祖はスコトゥスである。
実在論から人間原理へ

これは現代では自明のようにみえるが、中世までのキリスト教では、神は感覚的に認識できない超越的な存在と考えられていた。したがって個物をいくら観察しても、神の存在を知ることはできない。人にはそれを信じるか信じないかの選択しかない。

その根拠となるのは聖書だけで、そこに書かれていないことについては多くの神学者がアリストテレスの自然哲学を折衷して「キリスト教的世界像」をつくった。トマス=アクイナスの『神学大全』では、森羅万象が神によって説明されているが、そこには超自然的な神と自然哲学の矛盾が出てくる。

たとえばトマスは、神の証明に「何かが運動するからにはそれを動かすものがなければならない」というアリストテレスの説を使うが、これは地上の物質の運動によって物質を超える神の存在を証明するという矛盾に陥っている。もしアリストテレスのいうような「第一運動者」としての神がいるとしても、それはキリスト教の神ではない。

このように神が感覚的に経験する世界を超越していると考えると、その存在も不在も証明できない。だからスコトゥスは、トマスのように論理的に神を語ることは不可能だと考えた。神は無限であり、「存在そのもの」として世界に遍在するので、それを別のもので証明することは不可能なのだ。

人間にできるのは、存在する世界が確実で一義的な秩序に従っていることの証明だけだ。たとえば重力の加速度が地上のどこでも一定であれば、世界には質量が一義的に存在することを証明できる。それをガリレオより前に実験で確かめたのは、スコトゥスの弟子だった。その後、近代科学の証明した驚異的な自然の規則性は、神の存在証明となった。

このように全宇宙の物質が一つの法則で運動しているという仮説には論理的な根拠はないが、今まで例外は一つも見つかっていない。これはキリスト教からしか出てこない信仰だが、それが結果的に正しかったことが近代科学の驚異的な発達を可能にした。他の文化圏では「世界全体に通じる普遍的な法則」という発想が生まれなかった。

この意味で、ニュートン以降の近代科学は世俗化したキリスト教ともいえる。中世まではヨーロッパよりはるかに進んでいた中国やイスラム圏が逆転された原因も、科学技術を利用した資本主義が、経験的な職人技をはるかに超える効率を実現し、その法則の予見可能性によって飛躍的な技術革新を可能にしたからだ。

しかし世界がなぜこれほど規則的なのかは、物理学者にもわからない。唯一の説明は人間原理(anthropic principle)で、それは「もし世界が少しでも不規則だったら人間は生存できないので、人間が存在する宇宙は規則的にできている」というトートロジーだが、われわれの存在が天文学的な確率の偶然であることは疑いない。それが天の配剤というものだろう。