憲法と知識人――憲法問題研究会の軌跡 (岩波現代全書)
国会では安保法案を参議院で採決するか、60日ルールで衆議院で再可決するかが話題になっているが、そんな会期末になって法律の専門家を自称する人々が300人も集まって反対集会をやっているのは悪い冗談だろう。

しかし1950年代には、知識人が憲法改正を阻止した栄光の歴史がある。1958年に宮沢俊義、我妻栄、矢内原忠雄、丸山眞男など53人の学者が結成した「憲法問題研究会」は、当時の法学界の主流ばかりでなく、湯川秀樹など自然科学系の研究者まで参加した「悔恨共同体」の結集だった。

同じ年に岸内閣は、憲法改正のために政府の「憲法調査会」を発足させ、その会長には宮沢の就任を要請したが、彼はこれを断って憲法問題研究会に参加し、その次に打診した我妻も研究会のほうに参加した。これが政権にとって決定的な打撃となり、憲法調査会にはB級のメンバーしか集まらず、答申も出さないで消滅してしまった。

憲法問題研究会はその後も安保条約改正の強行採決に反対する声明などを出したが、彼らも(調査会が消滅したので)結論は出さなかった。そのため議論の内容は今までほとんど知られていなかったが、本書は丸山文庫や宮沢文庫などのアーカイブから研究会の議事録を探し出し、その議論を再現したものだ。

その概要は丸山が1964年に「憲法第九条をめぐる若干の考察」という論文で発表したが、おもしろいのは彼らの最大の主張が平和主義ではなかったことだ。丸山もいうように「戦争主義」というものが存在しない以上、平和を目的とすることは自明であり、問題はそれをどういう手段で実現するかという民主主義のあり方だったのだ。
問題は「国民主権」だった

憲法問題研究会の前身は、「全面講和」を求めてつくられた平和問題談話会だったが、これは社会主義勢力が強かったため方針が分裂し、丸山の書いた「三たび平和について」第1・2章では非同盟が強調されているが、清水幾太郎が中心になって書いた第3章では憲法改正の阻止を掲げた。

平和問題談話会はサンフランシスコ条約で敗北したが、憲法擁護の部分を継承しようとしてつくられたのが憲法問題研究会だった。このとき最大の焦点は、憲法学の最高権威、宮沢を政府の憲法調査会がとるか民間の憲法問題研究会がとるかで、宮沢は後者を選んだ。丸山は「宮沢先生と我妻先生がこっちに入ったことで勝負はついた」と回想している。

この時期には、まだ変則的な憲法を修正しようという考え方は社会党の右派にもあり、政府は社会党にも憲法調査会への参加を呼びかけたが、この情勢をみて社会党も参加を拒否し、これで両院の2/3の賛成という条件が満たされることは不可能になった。

宮沢は、新憲法の「松本案」を起草した中心人物だった。彼は戦前には大政翼賛会に協力した武装平和論者であり、第9条の絶対平和主義を永遠に守るべきだとは考えていなかった。ただ彼は当時の岸内閣の「自主憲法」案が復古的で、明治憲法に戻すことをねらっていることを懸念し、第9条以外の国民主権や基本的人権を守ることが中心だった。

民法学の権威である我妻が(彼の同級生だった)岸の要請を断ったのも、同じ理由だった。自民党の中には旧民法の「家」制度を理想とする人々が多く、戦後できた男女平等などの新しい家族制度が破壊されることを危惧したのだ。

研究会の中心だった丸山も、前述のように平和主義者ではなく、憲法第9条を絶対に守れという立場ではなかった。しかし彼は日本がアメリカの軍事戦略に組み込まれ、その一環として極東の「反共の砦」にされることを警戒した。特に戦争の脅威がかつての主権国家の通常戦争ではなく核戦争になっているとき、再軍備は実質的な防衛力にならないと主張した。

だから焦点は「憲法の平和主義を守ること」ではなかったのだ。これは自民党もかねてから主張しており、平和を守る手段として自衛権の明記や日米安保条約の締結を求めていたので、この点では研究会と違いはなかった。問題は国民の合意を得ないままなし崩しに再軍備が進められることであり、民主主義の擁護が研究会の最大のスローガンだった。

時代は大きく変わった

これは今考えるとわかりにくいが、当時の自民党の憲法改正案は「押しつけ憲法」を全面的に日本人の手で変えようという明治憲法への回帰の方向だった。それを推進したのも岸を初めとする戦争の当事者で、こういう人々に改正させると、せっかくGHQの力で実現した国民主権の原則が失われることを丸山たちはもっとも恐れたのだ。

したがって非武装へのこだわりはそれほど強くなく、「無抵抗主義」という意味の平和主義は否定した。むしろ将来、国連軍ができれば、日本がそれに参加して集団安全保障の一環をになうことも想定していた。彼らは1964年に次のような声明を発表し、これが実質的な結論になった。
私たちが憲法について努力すべき課題は、戦争直後に決意した国民主権・人権・平和の三原理をさらに充実してゆくことである。この努力によってのみ伝統の新鮮な再生と真の自主性の実現が期待される。伝統と自主の名のもとに憲法の逆転を誘致する改定に対して、私たちは強く反対するものである(本書p.162、強調は引用者)。

全体としてこの研究会は、岸政権の復古的な勢力が新憲法の国民主権の原則を変えようとしていることに反対するもので、第9条はその一部だった。彼らは60年安保に際しても抗議声明を出したが、それは条約改正に対するものではなく、岸内閣の強行採決に対してだった。

憲法問題研究会はその後も続いたが、1964年に政府の憲法調査会が解散したあとは年1回の学会のような催しになり、1976年に解散した。丸山たちも政治活動からは身を引いたが、その後も左翼政党や労働組合は「護憲=平和勢力」をスローガンとし、社会主義が崩壊してからは「憲法を守れ」が一枚看板になってしまった。

今回の安保法制は、1958年ごろの再軍備とはまったく違う。自民党の憲法改正案も昔のように新憲法を否定するものではなく、第9条第1項は残すとしている。今度のようなバカバカしい憲法論争が今後も繰り返されるのを防ぎ、本質的な安全保障政策を立案するためにも、第9条に限定した改正が必要だろう。