日本哲学原論序説: 拡散する京都学派
西洋近代を超える「日本の哲学」は存在するのか、また存在する必要があるのかというのは、著者も自問するように疑わしい。その元祖とされる西田幾多郎も、フッサールや新カント派などの知的ファッションを「絶対矛盾的自己同一」などの悪文で書いただけだ。

この他に戦前で悪名高いのは「近代の超克」グループの下村寅太郎、小林秀雄、亀井勝一郎などの面々で、「近代を超える東亜共同体」という国策に協力して信用を失った。彼らのおかげで、近代の超克というテーマが胡散臭くなってしまった。

しかし最近フランスで起こっているポストモダン批判の動きは、こういう話と似た面がある。近代の個人主義やニヒリズムはすべての価値を否定したが、そこからどうやって秩序や権力が生まれるのか、という積極的なメカニズムは何も語らなかった。晩年のフーコーやデリダはそれを語ろうと試みたが、未完に終わった。

この点で「天然ニヒリスト」である日本人にとっては、もともと絶対的真理などというものは特殊西洋的な錯覚にすぎない。とすると、どうやって(東洋にも通じる)普遍的な価値が生まれるのだろうか。あるいは生まれないのだろうか――これが日本の哲学者のテーマだった。

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