キャプチャ19世紀末にニーチェが予言したように、20世紀はニヒリズムの時代だった。近代市民社会の理想が2度の世界大戦で破壊され、社会主義の理想が崩壊し、あらゆる絶対的価値を否定するポストモダニズムだけが残った。

しかしすべてが無根拠なら、人はなぜキリスト教やイスラームを信じるのだろうか。量子力学や分子生物学は客観的真理だという通念も、たとえばSTAP細胞をめぐる騒動をみると、宗教と大した違いがあるようにはみえない。

むしろ本質的には根拠のない世界から、人々の共通に信じる<真理>がなぜ生まれるのか、という問題が21世紀の哲学のテーマになろう。本書はこのような「ポスト・ポストモダン思想」の論文集である(PDFで入手可能)。その中心になっているのは、最近メイヤスーなどフランスの若手が主張している思弁的実在論(speculative realism)だが、この名前はミスリーディングである。

少なくともメイヤスーの議論は、認識とは独立の実在を主張するものではなく、ヒュームの問題を「必然的実在とみえるものは本質的には確率的存在である」と考えることで解決しようとするものだ。それは「真理はいかに構成されるか」という問題を設定する点で、ジジェクもいうように「新ヘーゲル主義」とでも呼んだほうがいいのかもしれない。
本書の内容は非常に専門的だが、問題意識は共有されている。ニーチェやマッハの時代以降、ニヒリズムや「感覚一元論」が20世紀の認識論の主流となり、それが「言論的転回」とあいまって、「現前の形而上学」を否定して、テキストの戯れとして哲学を語ることが流行した。

しかし20世紀末になって、この手のポストモダン的おしゃべりにはみんな飽きてしまった。フーコーは「権力」、デリダは「主権」というリアルな問題を扱おうとして未完成に終わった。しょせん「新ニーチェ主義」とフーコーも自称する方法論では、実在には手が届かないのだ。

ヒュームの問題は解けるのか

こうした近代的唯名論の元祖はヒュームであり、廣松もいうように近代哲学は彼に始まってヘーゲルで終わったともいえる。その意味ではメイヤスーがヒュームの問題に挑戦するのは、必然ともいえる。ヒュームにとっては、太陽が明日も東から昇るというのは経験的な推測にすぎず、太陽の客観的実在を証明するものではない。このパラドックスを解けた哲学者は、いまだに一人もいない。

メイヤスーはこの難問を「実在」を「確率1の事象」と定義することで乗り超えようとする。すべての実在は推測にすぎないが、確かな推測とそうでない推測の差はある。カントが超越論的主観と名づけたのは、確率1に限りなく近い主観であり、この意味で科学の基礎は確率論的である。この点は量子力学で顕著だが、古典力学の明証性も見かけ上のものにすぎない。

これはメイヤスーも認めるように、物理学の人間原理と同じことを言っている。そこでは宇宙定数などの値が「きわめて低い確率の偶然」だということが問題になっているが、それは(現実には存在しない)可能な宇宙という架空の母集団を想定しているからだ。

ジジェクはこれを(例によって)マルクスと結びつけ、彼の「物象化」の概念が経験から実在を構成する方法論だという。これはさかのぼればヘーゲルが弁証法と名づけた護教論であり、スコラ神学にもさかのぼる。

・・・などなどこの本の議論はまだ発散していて収拾がつかないが、人々の中から自生的秩序が生まれるロジックを考えることは重要な問題だ。これは木田元によれば、晩年のハイデガーが批判した西洋の<つくる>世界観を超える可能性もあるからだ。

この意味では、日本の<なる>文化を見出した本居宣長や、西田幾多郎や廣松渉に至る日本的な哲学は、意外にポスト・ポストモダン哲学の最先端かもしれない。