近衛新体制―大政翼賛会への道 (中公新書 (709))
いよいよ日本も戦時経済に突入しそうなので、戦前に学ぶことが多い。古賀茂明氏などの劣化左翼は「翼賛体制の構築に抗する」などと称して、大政翼賛会が戦争を起こしたと思っているようだが、これは逆である。「近衛新体制」が崩壊して軍部をコントロールできなくなったために、日本は戦争になだれ込んだのだ。

大政翼賛会の寿命は、意外に短い。1940年10月に結成されてから、翌年4月に改組されて近衛文麿が失脚するまで、実質的には半年しか活動しなかった。その後は東條英機が総裁になり、形骸化して内務省の下部機関となった。日米戦争を実行したのは、翼賛会を換骨奪胎した「革新官僚」だった。

30年代にさまざな新党運動があった事実を、本書は発掘している。石原莞爾は内閣を廃止して「日本国権社会党」に権力を集中しようと工作して失脚し、社会大衆党の麻生久はすべての政党を「大日本党」に集約して近衛を党首にしようとしたが、こうした案はすべて挫折し、最終的にできた翼賛会は折衷的で機能しなかった。その原因は、こうした新党が一国一党にして、党首にすべての権力を集中しようとしたためだ。

明治憲法で名目的な主権者である天皇に直属する形でバラバラに配置された行政機関は、幕藩体制のタコツボ構造を各省のタコツボに置き換えたものだ。これは全体を支配する強大な主権者を排除して内戦を防ぐシステムだが、対外的な戦争には適していない。戦争の意思決定には、主権者が必要になる。既存の政党の寄り合い所帯でそれを実現しようとした翼賛会の認識は、それなりに正しかったのだ。

しかし右翼はこれを「幕府的存在だ」と攻撃した。幕府は天皇の大権を侵すというのが建て前だったが、軍や官僚もタコツボの既得権を守るために右翼を利用した。近衛自身も皇族で「みこし」としてかつがれる性格だったので、優柔不断で何も決めることができず、東條に一喝されて内閣を投げ出した。

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