日本経済の再編成
JBpressの記事を書くために本書をアマゾンの古本屋で買ったが、これが「全面講和」や安保改正で「岸退陣」を主張した朝日新聞の論説主幹の著書かと思うと、その豹変に驚くとともに、時の政権やGHQに迎合して生き延びた生命力に感心する。

笠信太郎といえば、国語の教科書で「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える」といった小話で記憶している人が多いだろう。その文体はリベラルな西洋風だが、戦前の彼は『日本経済の再編成』の序文でこう書いている。
出来る限り統制から逃れようとする経済界の姿勢は、その利潤追求の個人的な本質をいよいよ露出してくる。勢い、こういう腰つきでは、経済界は政策に対して公然たる発言をなすことができなくなるほかない。しかし経済界がその自主を取り返すためには、結局のところその腐りかけた自由主義の一部分を切って捨てる必要がある。(強調は引用者。漢字かなづかいは変更)
本書の出た1939年12月には国債の増発でインフレになり、統制が強まって経済はかなり疲弊していたが、彼は「戦時経済に入っての経済統制」の成果を誇り、それを可能にしたのは国民の国策への協力だったという。それに対して経済界は「腐りかけた自由主義」にとらわれて戦争遂行への協力が足りないというのだ。

統制経済は朝日新聞の社論

よくも悪くも、目的は明確だ。「軍事行動は謂ゆる治安工作と並行して抗日勢力の徹底的粉砕を目指して進められなければならぬ。[…]その経済的基礎は東亜経済ブロックの上に置かねばならぬ」。その「東亜新秩序」を経済的に支えるのは、あるかないかもわからない「満蒙の資源開発」だった。具体的な「再編成の基本方向」として笠が提案したのは、次のような統制強化である。

 ・利潤率と配当の制限
 ・経理の公開と国家統制
 ・物資の割り当てによる生産統制
 ・消費の統制による資本蓄積の促進
 ・強制トラスト・強制カルテル

これは実際に1940年に「経済新体制確立要綱」として国策になり、総動員体制を実行する企画院がつくられた。笠は慎重に「社会主義」という言葉を避けているが、これはスターリンとヒトラーに学んだ国家社会主義である。

彼は(緒方竹虎主筆の誘いで)朝日に入社する前は、大原社会問題研究所でプレハーノフやカウツキーを訳し、かなり本格的にマルクス経済学を研究していた。このような社会政策の温情主義=家父長主義は、国家社会主義と補完的な関係にあり、今も朝日新聞の社論である。

笠の理論的な支柱になったのは、三木清の『協同主義の哲学的基礎』である。これは「現状維持的な階級協調主義ではなく、その立場とする全体を発展的に捉え、道徳的全体的立場から階級を超克して、これを全体のうちに於ける機能的かつ倫理的関係に発展せしめ、国民的腸同を実現せんとするもの」だという。

それは「既に破綻の徴歴然たる近代主義を一層高い立場から超克する」もので、自由主義のもつ個人的・営利主義的な性格を乗り越えると同時にマルクス主義の階級対立を規超え、全体主義の排他的・没個性的弊害を乗り越え、その普遍性ゆえに世界的意義をもち、東亜共同体の指導原理となる。それを指導するのが、協同主義の伝統をもつ日本の世界史的な役割である。

この強い影響を受けて、笠は企業を利益の上に立つ組織ではなく職能の上に立つ組織として統制し、生産を拡大させる「協同主義の経済倫理」を提唱した。このためには、資本家と労働者という対立を超え、すべて「社員」として協同体の有機的な一部になる必要がある。

『日本経済の再編成』は(その直後に発足した)大政翼賛会の理論として44刷を重ね、数十万部のベストセラーになった。昭和研究会で笠とともに「協同主義」をとなえた革新官僚の一部は企画院事件で検挙されたが、岸信介などの中枢は生き残って戦争を指導した。

笠は「英米的自由主義」の優位を認めつつも、それは世界の普遍的な原理にはなりえないと批判したが、それを超克する原理として彼が提案したのは、一種の戦時共産主義だった。それはソ連と同じく悲惨な結果になったが、彼は1940年に(危険を察知した緒方によって)海外特派員に派遣されて難を逃れ、戦後の朝日新聞を指導した。