歴史と私 - 史料と歩んだ歴史家の回想 (中公新書)
私以上の世代の日本の知識人にとって、マルクス主義はハシカみたいなもので、誰もが一度は学生時代に(多かれ少なかれ)感染した。それを治療して免疫ができるまでに長い時間がかかり、頭の悪い人々は歴研日弁連のように、左翼のまま年をとった。

ある人々は西部邁氏や、その弟子の佐伯啓思氏のように、マル経から近経に転向して「反米保守」になった。こういうマルクスもろくに読まなかった劣化左翼が、劣化右翼の教祖だ。西部氏と同じく60年ブントの指導者だった青木昌彦氏は、徹底的に勉強してマル経を乗り超えた。

著者(伊藤隆氏)も1935年生まれだから60年安保世代で、大学1年で共産党に入党した。しかしハンガリー動乱で共産主義に疑問をもち、六全協のとき離党した。彼は「発展段階説や階級闘争史観では史料がまったく読めない」ことに気づき、60年安保を最後に左翼とは訣別した。

彼は「講座派をやめると歴史学の方法論が何もない」ことに途方に暮れたが、実証主義に徹した。1970年代には「日本にファシズムはなかった」という論文を書いて歴研から総攻撃を受けたが、今では著者の議論が通説だ。むしろヒトラーのような独裁者がいたのはソ連であり、「全体主義」としてくくるべきだ、という著者の見解はアーレントと同じだ。
日本のファシストは挫折したが影響は残る

伊藤氏は1983年に書いた『近衛新体制』では、ナチスをまねようとしてまったく違う体制をつくってしまった大政翼賛会を詳細に分析している。大川周明や北一輝などの右翼はしょせん外野で、陸軍の中でもファシストに近かった石原莞爾は、東條などの統制派との人事抗争に敗れた。

近衛文麿はファシズムのみこしとしてかつがれ、ここに無産政党が真っ先に合流し、朝日新聞の笠信太郎がそのイデオローグとなった。ナチスと同じ国家社会主義という意味では、朝日新聞こそファシスト集団だった。これはファシストが公家の近衛をかつぐ「白足袋革命」と呼ばれたが、優柔不断な近衛はヒトラーにはなれなかった。

しかしファシストの大衆的な影響力は強かった。近衛は政党にも官僚機構にも支持基盤がなく、新聞を中心とする「世論」だけが頼りだったので、最初は慎重派だったが、やがて新聞の右傾化に引きずられて軍より右になり、1937年の近衛声明で日中戦争の歯止めをはずしてしまった。

近衛が「将軍」になることをきらった統制派や内務省は、大政翼賛会と対立しはじめた。近衛は日米戦争を何とか避けようとしたが、こうした国家の中枢をコントロールできなくなった結果、政権を投げ出してしまう。この性格の弱さは、孫の細川護煕氏に遺伝したのかも知れない。

だから日本にもファシズムと呼ぶべき運動はあったが、それは1941年4月の近衛退陣で挫折し、「革新派」の官僚と陸軍将校が主導権を握って東條というロボットを擁立し、日米戦争に突っ込んだのだ。このうち軍は戦後なくなったが、官僚機構は温存されたので、こういう「革新派」は戦後も残っているというのが著者の見立てである。

革新官僚のリーダー岸信介は北一輝の信者だったが、戦後アメリカの工作員となって通産省をつくり、政権を取った。企画院にいた大来佐武郎や和田博雄は戦後の経済安定本部に入り、同じく勝間田清一や和田耕作は社会党の幹部になった。岸の国家社会主義と勝間田などの「社会政策」の温情主義は、資本主義を否定する点で一致している。

本来のマルクスは「極左的自由主義」ともいうべき立場だったが、それがレーニンによって東洋的専制に改竄され、日本に輸入されて家父長主義になった。それは共産党から北一輝まで共通し、今も残る総力戦体制の遺産だ。これを乗り超えるには、まずそれを自覚することが第一歩だろう。