一九四六年憲法 その拘束 (文春学藝ライブラリー)
林房雄の『大東亜戦争肯定論』は右派の「東京裁判史観」批判のネタ元だが、本書は改憲派の「押しつけ憲法」論のネタ元である。ここに書かれている通り、GHQが憲法を「押しつけた」ことは経緯としては明らかだが、問題はそれが国民の意に反したものだったのかということだ。

当時、憲法第9条に反対したのは共産党だけで、国会のみならず昭和天皇から石原莞爾まで、国民がこぞって「軍隊はもういらない」とこれに賛成した。その後アメリカは間違いに気づき、1951年にダレス国務長官が吉田首相と会談して憲法改正を要請したが、吉田が拒否したため、「保安隊」を創設することで妥協し、講和条約が結ばれた。つまり再軍備しないでアメリカの「属国」であり続けることを選んだのは、吉田茂の判断なのだ。

ところが本書はこの吉田・ダレス会談を知らないで、アメリカが今でも日本の主権を侵害していると主張する(会談の内容は当時は外交機密だった)。その根拠は「密教」と称する江藤淳の憶測だが、あいにく憲法は第1条で「主権の存する日本国民」と明記している。本書の解説を書いている白井聡も、この基本的な歴史を知らないで「日本はアメリカにいじめられてきた」という陰謀史観を語る。
左右のルサンチマンを卒業しよう

江藤は文芸評論家だからしょうがないが、「無条件降伏」とか「国家主権」などの法律論が牽強付会で、特に「交戦権がないから主権がない」という論理は意味不明だ。主権国家には交戦権があるが、その逆は真とは限らない。「男にはヒゲが生える」という命題は正しくても「ヒゲがなければ男じゃない」は必ずしも正しくないのだ。

GHQは日本に主権を与えなかったと批判しているが、1952年の講和条約発効までは交戦状態なのだから、日本に主権があるはずがない。ドイツも臨時の「基本法」をつくって独立後に改正したのだ。それをしなかったのは吉田の打算だが、彼も晩年に第9条は「間近な政治的効果に重きを置いたものだった」と語っており、まさか70年も続くとは思っていなかっただろう。孫の麻生太郎は、改正する気もなかった。

むしろ損したのはアメリカで、安保条約で日本の軍事力を肩代わりして膨大なコストがかかっている。ニクソン副大統領は日本で「第9条は失敗だった」と公言したのに、江藤はそれは「顕教」で本当は「密教」の陰謀があるという。その証拠は何もないが、改憲派のルサンチマンはよくわかる。

孫崎享氏から白井氏に至る左翼の陰謀史観はこれの裏返しだが、結論が違う。憲法が「属国」になった原因なら、それを改正して交戦権を回復しようという安倍首相の論理になるはずだが、彼らはなぜか憲法を守って「東アジア共同体」をつくろうという石原莞爾みたいな話になる。こっちのほうがよほど危険だ。

左右の陰謀史観は似たようなもので、最近では佐伯啓思『従属国家論』が江藤の丸ごとコピーだが、こういうルサンチマンを抱いている世代も少なくなった。私もできるなら憲法は改正したほうがいいと思うが、本質的な問題ではない。解釈改憲で国会同意を得れば、当面は十分だろう。