これは鋭い指摘で、実はきのうの記事のブログマガジン版に同じことを書いたのだが、それを引用しよう。
大恐慌の中からファシズムが生まれた過程は、ドイツと似ている。普通選挙によって圧倒的多数の無産階級が政治を動かす「主権者」になったにもかかわらず、無産政党は四分五裂し、社会主義で生活が改善するという希望を与えることができなかった。代表者なき多数派として取り残された人々を代表すると称して独裁者が出てくる――これがマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で指摘したボナパルティズム(ファシズム)の起源である。

カール・シュミットもこれを踏まえ、『現代議会主義の精神史的地位』で次のように指摘した。
議会政治、すなわち討論による政治に対する信念は、自由主義の思想に属し、民主主義に属するものではない。[…]あらゆる現実の民主主義は、平等の者が平等に取り扱われるというだけではなく、平等でない者は平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に同質性ということであり、第二に――必要な場合には――異質なものの排除ないし絶滅ということである。(p.14)
これはアーレントと本質的に同じことを言っている。政党政治は、特定の同質的な党派が権力を握ることによって他の党派を排除する制度であり、この点で「ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、必ずしも反民主的であるわけではない」とシュミットはファシズムを肯定的に評価し、こう書く。
他人から「観察されることなく」投票を行ない、そして個々の投票が記録され、算術的多数が計算されるような方法においてのみ人民がその意志を発表することができるという考えは、非民主的な観念であって、それは19世紀において自由主義的諸原則との混合の結果、発生したものである。

1億の私的な人々の一致した意見といえども、それは人民の意志でも世論でもない。人民の意志は、半世紀以上きわめて綿密に作り上げられた統計的な装置によってより、喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明のものによる方が、むしろいっそうよく民主的に表現されるのである。(p.25)
まさにヒトラーは、何万人も観衆を集めた大衆集会を各地で開き、観衆から嵐のような「喝采」を浴び、それを(当時発明された)ラジオで放送するという政治的イノベーションによって、急速に支持を拡大した。したがってナチズムは、シュミットの定義によれば「民主的」に政権を獲得したのである。

あとはかなりマニアックな話になるので、来週の日曜に配信する「池田信夫ブログマガジン」で。