西郷隆盛と明治維新 (講談社現代新書)
アゴラで紹介した『明治維新という過ち』は、尊王攘夷がファナティックな危険思想だったと強調しているが、結果的に維新が宗教戦争のような流血の大惨事にならなかったのは、福沢諭吉が指摘したように尊王攘夷は革命の「名」に過ぎず、政権を運営する「実」をになったのは西郷隆盛のような穏健派だったからだ。

その西郷が、自分のつくった政府に対して西南戦争という内乱を起こして死んだのは、明治維新の中でも最大の謎だが、福沢だけが『明治十年丁丑公論』で西郷を擁護した。ここには単なる「近代化」としては理解できない明治維新の特殊性がある。それは著者が指摘するように、革命をになったのがブルジョア階級ではなく、武士だったという点である。

明治維新が「革命」なのか、それとも不十分な「上からの近代化」なのかという論争は昔からあり、かつて歴史学の主流だった唯物史観では後者と考える傾向が強かった。それに対して最近では、革命と考える専門家が多い。それは名目的には天皇をかつぐ君主制だが、実質的には全国を270に分割していた幕藩体制を廃止して統一国家をつくったからだ。

著者も維新は革命だと考えるが、それはフランス革命やピューリタン革命のような市民革命ではなく、武士の革命だった。その主人公はブルジョアジーではなく、西郷隆盛を中心とする下級武士だった。これが明治維新を武士から武士への政権移譲としてスムーズに進める原因になったと同時に、いろいろな矛盾を生んだ。その最たるものが西南戦争である。

西郷に共感した福沢諭吉

西郷は明治維新を元に戻そうとしたわけではなく、彼のもとに集まった元薩摩藩士を「私学校」という名の軍団に組織したことに政府が警戒を強め、それを武装解除しようとした事件が発端だった。それに対して決起しようとした急進派を、西郷は抑えきれなかったのだ。

政府軍の中枢には薩摩出身者が多く、西郷は彼らが反乱軍を支援しないまでも中立を守ってくれるかもしれないと期待したようだが、大義のない戦いを支援する味方は現れなかった。福沢だけが、西郷の死を惜しんでこう書いた。
今のいわゆる大義名分なるものは、ただ黙して政府の命に従うに在るのみ。一身の品行は破廉恥の甚だしき者にても、よく政府の命ずるところに従いその命ずるところに赴いて、以て大義名分を全うすべし。故に大義名分は以て一身の品行を測るの器とするに足らず。(『丁丑公論』)
新聞は西郷の戦いを「大義名分がない」と批判するが、それは「政府に逆らった」というだけのことだ。政府に従うことが大義なら、徳川幕府を倒した明治維新こそ大義のない謀反である。問題は政治の実態であり、武力行使はよくないが、悪い政府に対しては抵抗する権利がある――という福沢の論理は、主君に諫言する武士のエートスに近い。

他方、福沢は『痩我慢の説』では、薩長軍と戦わないで江戸城を明け渡し、明治政府にも仕えた勝海舟を批判し、武士は主君に殉ずべきだと論じる。これは西郷を擁護した論理と矛盾するようにみえるが、政治を主君と臣下の関係で考える点は共通だ。「立国は私なり、公には非ざるなり」という『痩我慢の説』の冒頭の言葉も、国家も幕藩体制の「家」と同じようなもので、絶対的な主権なんかないのだ、という近代国家に対するシニシズムとも解釈できる。

晩年の丸山眞男も、『文明論之概略』以降の福沢に、こうした武士としての側面が強くなったことを指摘している。明治維新の奇蹟的な成功の要因を考えることは、これからの改革を考える上でも重要だ。それは単純なモダニズムやナショナリズムではなく、「家」を受け継ぐ日本的改革だったのかもしれない。