ならず者たち
21世紀の戦争が、国家と<国家でないもの>の非対称戦争になることを劇的な形で示したのが、まさに2001年に起こった9・11だった。デリダはここにヨーロッパ的な戦争という概念の終わりをみる。アメリカは90年代に「ならず者国家」を敵として指定したが、21世紀に現れた敵は国家でさえない「ならず者」だった。

領土を争奪する古典的な戦争に代わって起こっているのはグローバリゼーションという名の新しい戦争であり、国連の決議さえなしにイラクを攻撃したアメリカは、ヨーロッパ的な普遍主義も捨て、世界の主権者としてふるまい始めた。ここでは法によって主権を制限するという近代国家の原則も破棄され、無条件の主権者が世界を支配しようとしている。
もともと民主的な主権国家という言葉は矛盾している。主権者が例外状態について決断する者だとすれば、国民すべてが決断することはありえないからだ。デリダはこうした無条件の主権者の支配に対して、すべての移民を受け入れる無条件の歓待(hospitality)を対置する。これは近代国家の否定だが、彼が『歓待について』で論じたように、インターネットなどのテクノロジーは無条件の歓待を可能にし、所有権さえおびやかしている。

これを読んで私が連想したのは、天皇制との関係だ。日本の組織は(政府から企業に至るまで)徹底して主権者を否定するが、それは異質な人々を拒絶するタコツボ構造と補完的になっている。主権者が例外について決断する主体だとすれば、メンバーを固定して例外を排除することで、日本社会の秩序は保たれているのだ。

人口移動によって生じる紛争を減らすには、二つの方法がある:異質な人々を拒絶して共同体を守るか、紛争を解決する主権者を設けるかである。前者はゲーム理論の長期的関係であり、後者は契約理論の残余コントロール権だが、両者は両立しない。

長期的関係を維持するには「ホールドアップ」する主権者がいては困るので、残余コントロール権の所在を曖昧にし、天皇のような名目的な主権者にする必要がある。他方、人口移動を歓待する流動的な社会では、主権者を明確にするシステムが必要だ。日本社会が前者だとすれば、国境を廃止して全世界の人々を歓待せよと主張するイスラム原理主義は後者の極だ。

デリダは無条件の主権者になりつつあるグローバル資本主義を批判し、無条件の歓待を原理とする「来るべき民主制」を提唱する。もちろんそれは不可能なユートピアだが、ピケティの「グローバルな資本課税」と同じく、理念を明確にする上では有用なユートピアだ。日本がこれからグローバル化に対応するには、歓待の原理を学ぶ必要があろう。