丸山真男との対話
安倍首相が「戦争をしたがっている」とか「ヒトラーだ」という類の話は、彼を過大評価している。よくも悪くも、彼にはヒトラーのような信念も指導力もない。憲法改正は、今では政治的スローガンとしてもほとんど意味がない。

丸山眞男は1950年代なかばから死ぬ直前まで、『正統と異端』という幻の主著を書こうとしたが、ついに未完に終わった。それは彼の弟子との研究会をまとめたもので、その資料や録音テープが今後も刊行される予定だ。本書ではその研究会に40年間つきあった著者が、なぜこのプロジェクトが未完に終わったかを語っている。
当初はキリスト教の正統と異端という図式で天皇制と共産党を論じるという発想だったらしいが、戦後に天皇制や共産党の正統性が衰える中で、丸山はL正統(legitimacy)とO正統(orthodoxy)の違いに興味をもつようになる。西洋の歴史では、両者は俗権と教権の対立として明確だが、日本にはキリスト教のようなO正統はあったのだろうか。

1988年に丸山は「L正統としての天皇制がO正統としての教義をもったことはない。それは儒教やキリスト教のように自己を正統化する教義がなく、必要なときは外から借りてきた」という。「日本には正統がなくて異端だけがあった。非国民はあったが、国民はなかった」。こうして『正統と異端』というプロジェクトは放棄された。

同じことは、戦後の政治にもいえよう。自民党は「保守主義」の党だといわれるが、彼らが体系的な保守主義の教典をもっているわけではない。たとえば戦後保守のアンソロジーを読んでも、マルクス主義に対する批判ばかりで、憲法改正以外に積極的な政策はほとんど書かれていない。彼らの保守しようとする価値は何なのか、彼らにもわからない。

自民党の保守とは英米的なconservativeではなく、このような現状維持以外の意味をもたないL正統である。それは国家権力を必要とするものではなく、近世までの日本人は狭い村の中で掟を守って生活してきた。近代以降、「大きな社会」に統合される中で、日本はO正統としての君主制を輸入し、昔からいた天皇をそこにすえた。

しかしそれは西洋的な君主とはまったく違う空虚な記号だから、天皇家である必要さえない。戦後の自民党は「憲法改正」という無内容なスローガンを中心にすえ、野党はO正統としての憲法を守ることで自民党のL正統を支えてきた。今は「安倍は軍国主義だ」などと騒ぐ異端が安倍首相を支えている。

「政事の構造」を書いた丸山は、このパラドックスに気づいていたと思われるが、それを社会科学的に表現する概念を見出せなかった。著者には、問題そのものが理解できない。それは丸山が生涯の最後に気づいた、日本のもっとも深い謎なのである。