昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)
衆議院予算委員会は、西川農相の辞任騒動で紛糾し、予算の年度内成立が困難になったようだ。予算委員会が予算と無関係なスキャンダルで止まるのは、戦前から続く悪習である。

「大正デモクラシー」で政友会と民政党の二大政党が交代する慣行ができたが、予算は内閣がつくるので、帝国議会は予算に「協賛」するだけで修正する権限がなかった。このため注目を集める予算審議が、スキャンダル暴露の場になった。
こういう状況は、1928年の普通選挙で悪化した。高畠素之は「普選法による有権者は有象無象が多く、政党や政策を見て賛否を決するよりも、候補者の閲歴や声望に基づく有名無名が、彼らの判定する人物的上下の標準となる場合が多い」と評している。

普通選挙で巨額の選挙資金が必要になったため、政治腐敗が拡大し、各官庁の官僚や全国の地方官庁が政党に系列化された。一般の有権者は政策なんか知らないので、誰でもわかる金銭スキャンダルが投票に大きな影響を及ぼし、議会はその暴露合戦になった。

政治がこのように「劇場型」になると、新聞の役割が大きくなった。当時の新聞は「リベラル」な姿勢で反軍的な論調を取ることが多く、1930年のロンドン軍縮条約までは軍事支出の抑制を求めて軍部と対立していたが、1931年の満州事変以降、戦争報道で部数を拡大すると、新聞は軍を美化する報道に転じた。

腐敗して何も決められない二大政党に代わって「第三極」による「維新」運動が盛り上がり、その結果が青年将校のクーデタや大政翼賛会による「近衛新体制」だった。つまり大正デモクラシーは、それを弾圧する治安維持法や軍部につぶされたのではなく、デモクラシーの担い手だった議会と新聞によって自壊したのだ。

新憲法では国会の権限が強化されたが、野党に予算を修正する権限も能力もないのは同じだ。このため野党やマスコミは、スキャンダル叩きに奔走する。これに対して首相が「日教組はどうなってるんだ」などとヤジで応酬するようでは、昭和初期のように政党政治も終わりに近づいているのではないか。