喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)
今週のメルマガにも書いたが、「イスラム国も悪いが安倍首相も悪い」という人が多いのには驚いた。代表的なのは、朝日新聞社のウェブサイトに出た小林正弥氏の「人質事件、首相は『和』の心を取り戻して発信せよ」という記事だ。

彼は「もともと日本は、聖徳太子が17条の憲法で『和を以て貴しとなす』と定めたとされているように、国号を『大和の国』としており、『和』の心を文化的に大事にしてきた。[…]戦後日本は再び『和』の心を取り戻し、平和憲法のもとで、平和主義を貫き、海外の戦争には軍事的に加わらない方針を貫いてきた」という。
これがサンデルの訳者で、政治思想史の専門家を自称しているのだから、丸山眞男も嘆くだろう。彼はこうした「和の心」こそ儒教の残した負の遺産だと論じたからだ。彼や山本七平が高く評価したのは貞永式目のコモンローだったが、本書はその後の武家法の変遷を追い、喧嘩両成敗という日本独特の規範が成立する過程を描いている。

貞永式目は鎌倉幕府の中だけのルールで、各地の大名はそれぞれの分国法をもっていた。そのルールは多様だが、初期に重視されたのは、古来からあった自力救済の慣行をやめさせることだった。これは世界中どこにもある「やられたらやり返す」という復讐で、これを放置すると際限なく「親の敵討ち」が続き、最悪の場合は戦争に発展する。

そこでいろいろな紛争解決手段が試みられたが、その一つが本人切腹制である。これは殺人が家と家の紛争に発展しないように、加害者本人だけを切腹に処すことで収拾しようというものだった。これは被害者の応報感情に応じつつ、加害者一族の反発にも配慮して、本人だけが腹を切る刑罰だった。ここで重要なのは、切腹するのは本人だけで彼の家は責任を負わない個人主義である。

しかしこのように個人レベルで紛争が終わることは少なく、家と家との争いになることが多かった。そのとき採用されたのが、故戦防戦法と呼ばれるルールで、戦争を仕掛けた「故戦」の側を重く罰し、防戦した側を軽い刑にするものだ。

これに対して、どっちが仕掛けたかを問わないで、両方を罰するのが喧嘩両成敗法である。これはすべての紛争をなぁなぁですませるルールではなく、次の2つの原則である(今川家の例)。
  • 喧嘩した者は理非を論ぜず、両方とも死罪
  • 攻撃されても応戦しなかった負傷者は勝訴
このルールのもとでは、被害者は裁判に訴えるインセンティブをもつ。攻撃されたら、応戦しないで裁判に持ち込むことが有利になるからだ。故戦防戦法では応戦することが合理的だが、喧嘩両成敗法では、反撃しないで裁判に持ち込めば100%勝てる。

このように人々が複数のルールの中から喧嘩両成敗を選択した結果、これが紛争を最小化するルールとして定着した。ただ、これはかなり乱暴なルールなので、公式に制定した藩は少ない。裁判が社会的に定着すれば、それを選択させるインセンティブは必要ないので、江戸幕府も喧嘩両成敗を公式には制定しなかった。

しかし暗黙のルールとしては、喧嘩両成敗は多くの訴訟に適用された。その代表が忠臣蔵である。そもそも浅野内匠頭に切腹を命じたのは幕府による裁判なのだから、敵討ちは成立しない。討ち入りするなら江戸城にすべきだが、なぜか赤穂浪士は吉良家に討ち入りし、吉良家もお家断絶になってしまう。これは単純な喧嘩両成敗ではなく、幕府の法秩序を守るために復讐を厳罰に処す法治主義である。

このように日本の歴史の中でも、自力救済による復讐というホッブズ的な自然状態が圧倒的に長かったのであり、「和の心」などというものは、新憲法ができたあとの平和ボケの錯覚にすぎない。