ピケティは、レジオン・ドヌール勲章を拒否した。「名誉ある人を決めることが政府の役割だとは思わないからだ」という。ここには彼の国家観がよくあらわれている。『21世紀の資本』の冒頭に掲げられているのは、フランス人権宣言の第1条である。
人は自由かつ権利において平等(egaux en droits)なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ設けられない。
ここにいう平等は、日本人のイメージする結果の平等ではなく、すべての人が等しく同じ人権をもっているという同等性である。これは今では自明にみえるかもしれないが、1789年にはそうではなかった。特定の国にも身分にも依存しない人権という概念は、それまでヨーロッパにはなかった。

バークは、このような普遍的な人権という思想を批判した。すべての人間が「同じ人権をもって生まれた」などという迷信にもとづいて革命を起こすと、その政権は人権の名のもとに他の国民を「解放」する戦争を起こすだろう――という彼の予言は正しかった。

他方、マグナ・カルタで定められたのはイギリス人の権利なので、他国には適用されず、他国がイギリスの革命に干渉することもなかった。抽象的な人権ではなく慣習を尊重し、政治も経済もあるがままにする英米的な自由主義が、その後もずっと資本主義の主流である。

それでいいのか、というのがピケティの問題提起だ。資本の論理にまかせると、富は大企業や資本家に集中し、タックス・ヘイブンに逃避する。今や世界の富の1割近くが地下経済になり、税率は逆進的になりつつある。節税技術に多額の金をかけることのできる大富豪の税率が最低になるからだ。

マルクスが1848年に発見したグローバル資本主義は、主権国家と闘いながら成長してきたが、つねに国家にまさっていたわけではない。戦後のブレトン=ウッズ体制では、国家が資本主義をおさえこんできた。しかし今、この闘いは資本主義の勝利に終わろうとしている。それを可能にしたのは、情報ネットワークである。

保守主義者はそれでいいというだろうが、資本が国家から自由になってオフショアに集まると、可処分所得の不平等はますます拡大し、財政をおびやかす。主要国で対外純資産を計上しているのは日本とドイツだけだが、日本の企業も合理的に行動するようになると、連結の経常利益は上がるが、納税額は減る。

ここでわれわれは、資本主義か主権国家かという問いに直面する。ピケティは経済システムとしての資本主義は守るべきだとしつつ、国家を守るために「グローバルな資本課税」を提案する。それは今はユートピアだが、人権を守るために必要なユートピアかもしれない。

国家は巨大な資本の力の前には無力にみえるが、軍事力を発動すれば、資本主義をコントロールすることは不可能ではない。ブッシュ政権は「マネーロンダリング防止」と称してケイマン諸島に介入し、EU各国の警察はリヒテンシュタインの銀行を差し押さえた。

これが保守と左翼の本質的な対立である。私はピケティの意見には賛成しないが、富のグローバルな分配が21世紀の最大の問題になるという彼の見通しは正しいと思う。派遣法反対などというお涙ちょうだいの政策しか出せない日本の左翼は、ピケティを読んだほうがいい。