政治的なものの概念
むずかしい話のついでにメモ(ほとんどの人には読む意味がない)。デリダが主権の批判者として評価するのはシュミットだが、彼はその先駆者としてマルクスをあげている。

カントの「世界政府」は主権国家の集合体であり、国家を統治する国家をもたない、と嘲笑したのはヘーゲルだが、彼の『法哲学』でもすべての特殊性を止揚した普遍が、なぜかプロイセン国家だった。これを御用哲学と批判したマルクスはインターナショナルを創設し、完全な自由貿易を提唱した。
シュミットは本書で、このインターナショナルこそ近代国家を乗り超える形態だという。国際連盟は中途半端な主権国家の寄せ集めにすぎないが、「第三インターナショナルのように国家の境界を超え、その壁を突き破って国家の領土的閉鎖性を否定する運動こそ、戦争を最終的に終わらせる可能性をもつ」と彼は評価した。

これが(国際化と区別される)グローバル化の本質である。国際機関は政治家や官僚機構の妥協の産物であり、国際法は「主権国家の自己制限」でしかない。それは本源的に国家主権に依存しているので、国家に不利な改革はできない。

もともと経済活動はグローバルであり、16世紀まで世界に国境はなかった。労働運動はそういう資本主義以前の普遍的な連帯を求めている。現代でインターネットが驚異的な成長を遂げたのも、国際機関の官僚機構をバイパスしたからだ。

しかしシュミットのいうように、政治が友と敵を区別することだとすれば、外のどこにも敵をもたない国家は、すべての内なる敵を弾圧することによってしか維持できない。その根拠になるのは、みずからの理念の絶対的な普遍性である。レーニンやルカーチがプロレタリアートの不可謬性をとなえたことは、この意味で一貫している。

もちろんそんな絶対的真理はないので、プロレタリア階級が全人類を解放するというレーニンの理想は、恐るべき逆ユートピアをもたらした。シュミットはここから、主権国家がいかに欺瞞的であろうとも、それ以外の実在はないのだという。

だがデリダは、あえて21世紀に「新しいインターナショナル」の可能性をマルクスの中に見出そうとする。それは主権国家を超えて連帯する人々のアソシエーションだ。世界の不平等は、移民を無制限に受け入れる歓待で(論理的には)解決できる。資本が国境を超えて自由に移動できるのに、どうして人々は国籍にしばられるのだろうか。

向こう数十年はシュミットのシニシズムが正しいだろうが、100年ぐらい先を考えると、マルクスやデリダの理想が実現する可能性もゼロではない。ただしそれができるとすれば、人々の善意によってではなく兵器の均衡によってだろう。

暴力革命が先進国で不可能になったのは、政治が改善されたからではなく、国家の軍事・警察力と市民の武力の不均衡がきわめて大きくなったからだ。中東で戦争が続くのは武力が多いからではなく、テロリストを鎮圧する国家の武力が不十分だからである。

マルクスは主権国家の矛盾を「市民社会」への回帰で乗り超えようとしたが、彼は市民社会(societas civitas)の本質が暴力にあることに気づかなかった。暴力装置としての主権国家を乗り超えるには、暴力を完全にコントロールする世界政府をつくるしかないが、それは見果てぬ夢だろう。