「そこまで言って委員会」でちょっと気の毒だったのは、「資本主義の崩壊」で出てきた的場昭弘氏だった。私はもっと教条的なマル経かと思っていたのだが、番組のあと控え室で「ブログはいつも読んでます。池田さんのマルクス解釈は正確です」とお墨付きをもらった。
そのとき彼と(意外にも)意見が一致したのは、マルクスの構想していたのは「生産手段の国有化」ではなく、アソシエーションだったということだ。これは柄谷行人氏がNAMというコミューンで実験し、的場氏も参加したらしいが、「アソシエーションはだめだということがわかりました」という。

アソシエーションの元祖は、マルクスが『哲学の貧困』で罵倒したプルードンである。マルクスは、自分の思想がプルードンのまねであることを隠すために、わざわざ1冊の本を書いてプルードンを罵倒したのだろう。まもなく出す『資本主義の正体』から引用しておく。
「私的所有を廃止して個人的所有を再建する」というマルクスの奇妙な表現は、左翼を悩ましてきた謎だった。ボルシェヴィキはこれを無視して生産手段を国有化し、社会民主主義者は「社会主義になっても財産は守られる」と解釈したが、それでは資本主義と変わらない。

日本語では「私的」と「個人的」はほとんど同じ意味だが、ドイツのprivatの語源はラテン語で「収奪する」という意味で、もとは共有財産を盗むことだった。つまり資本家が労働者の個人的な労働の成果を私的に収奪するメカニズムが資本主義の根底にあるのだ。
 
これに対置される個人的所有という言葉が最初に出てくるのは『哲学の貧困』で、過渡的社会の制度設計として、リカード派の経済学者、ジョン・ブレイが提唱したものだ。彼は「新株式会社制度は、コミュニズムに到達するため、現在の社会に対してなされた、生産物の個人的所有と生産諸力の共同所有とを併存させるように取り決められた譲歩」と書いている。
 
マルクスは『資本論』では、これを(ブレイの名前を出さないで)ほぼそっくり取り入れている。したがってこれは「自己労働の所有」といった抽象的な意味ではなく、従業員持株制度のようなものと解釈できる。株式会社(上場企業)を未来社会との過渡的な「社会的資本」とみる考え方は、のちにみるように第3巻でも示されており、彼は意外に具体的な形で未来社会を考えていたことがわかる。

マルクスは「このような株式会社においては、各個人は彼が所有している自分がよいと思うだけ蓄積し、自分が適当と考えるようにその蓄積を利用する自由を、依然としてもっているであろう」というブレイの引用文の「株式会社」を「アソシエーション」と書き換えている。つまりこれは、従業員が株式をもつ労働者管理企業のようなものと思われる。
この点は、マルクスの射程を考える上で重要だ。一般に思われているように彼の思想はロシアや中国で実現したのではなく、日本で実現したのだ。株主主権を制限して平等主義を徹底する日本の企業は、プルードンやマルクスの考えたアソシエーションに近く、それは20世紀後半に――マルクスの予想とは違う形で――成功した。

しかし皮肉なことに、それを挫折させたのは、マルクスの発見したグローバリゼーションだった。アソシエーションはタコツボ的な小集団では機能するが、それをグローバルに組織するときは強いリーダーによるトップダウンの決定が必要になる。それはアソシエーションの自律性を侵害するので、労働者はリーダーを名目的な存在にして指揮系統を形骸化する。このような意思決定の混乱が、日本企業の失敗の原因だ。

この意味でマルクスは、日本型資本主義の成功と挫折を予告していたのである。彼は今も新しい――という点で(マルクス文献学のプロである)的場氏と意見が一致した。