天皇制の文化人類学 (岩波現代文庫―学術)
標準的な朝鮮史研究では、慰安婦問題なんて検討の対象にもならないフィクションだが、韓国人が強い関心をもつのは、それが彼らの受けてきた民族差別の象徴だからである。「在日特権」どころか、在日韓国人は、職業でも教育でも強い差別を受けてきた。

このような被差別民は非日常的な記号として、天皇と対称的な位置から日常の象徴空間を支えている。本書も指摘するように、同和や在日の差別は民族差別ではなく、天皇制を支える負の記号としての聖痕(スティグマ)なのだ。

たとえば有名な謡曲、「蝉丸」は天皇の子が盲目の琵琶法師になる物語で、戦前は不敬罪を恐れて上演できなかった。その粗筋は次のようなものだ:
醍醐天皇(885~930)の第四皇子、蝉丸の宮は、生まれつき盲目でした。あるとき廷臣の清貫は、蝉丸を逢坂山に捨てよ、という勅命のもと、蝉丸を逢坂山に連れて行きます。清貫は、その場で蝉丸の髪を剃って出家の身とし、蝉丸は琵琶を胸に抱いて涙のうちに伏し転ぶのでした。

一方、醍醐天皇の第三の御子、逆髪は、皇女に生まれながら、逆さまに生い立つ髪を持ち、狂人となって、辺地をさ迷う身となっていました。都を出て逢坂山に着いた逆髪は、藁屋よりもれ聞こえる琵琶の音を耳に止め、弟の蝉丸がいるのに気づき、声をかけます…
ここでは天皇の息子と娘が盲目と狂気というスティグマを負い、日常生活から追放されて芸能民となる。このように天皇制は、障害者や狂人を差別する負の感情と対になった崇拝の感情に支えられ、社会秩序を守っている。それは通常の君主制のような暴力装置に支えられた権力ではなく、このようなシンボル操作にもとづく王権なのだ。

日本が近代化の過程で、アジアで唯一の国家意識を持ちえたのは、おそらくこうした記号としての天皇が人々に共有されていたからだろう。それは近代のナショナリズムとは異なる共同体意識が文化的に融合したものと思われる。ここには政治の言葉では語れない、日本人のきわめて高度で深いアイデンティティがある。

朝日新聞の創作した「従軍慰安婦」というフィクションは、被差別民の立場から天皇を糾弾する物語としてはよくできていた。そこには「蝉丸」のように、民族差別と女性差別とセックスがからみ、お涙ちょうだいの物語もある。それがいまだに韓国人の愛好する理由だろう。それは政治の場で論じるより、チープな芝居として見たほうがいい。