韓国にとって、朝鮮人が「日本兵」に志願した歴史は、受け入れがたいものらしい。徴兵(強制)はなかったのに、80万人以上の朝鮮人が50倍の競争率で望んで日本兵となり、死地におもむいたのだ。ここに慰安婦などとは比較にならない重要な問題がある。
今週のメルマガにも書いたように、近代国家にとってもっとも重要な問題は、国のために死ぬという意識を生み出すことだ。それがナショナリズムだが、日本人には――福沢諭吉も嘆いたように――もともと国民(ネーション)という意識がない。それなのに、あのように長期にわたる戦争を戦うことができた原動力は何だったのか。

それが天皇のために死ぬという意識だった。国家という抽象的な概念は武士には理解できなかったが、「主君への忠誠」の倫理は古くからあった。この場合の主君はそれぞれの家のあるじだったが、その代わりに全国共通の主君をつくったのが明治維新だった。これは革命ではなく、天皇家に大政を奉還する王政復古(Restoration)である。「維新の党」の英語名称をInnovation Partyとするのは、歴史への無知だ。

ここで国がまとまる単位は、近代的な意味でのネーションではない。尊王攘夷の原型になった水戸学は「大日本史」によって日本という意識を生み出したが、そこで日本を統合する正統性の起源は国家でも民族でもなく、万世一系の天皇家だった。ここに日本がアジアで唯一、自力で近代化を実現した秘密がある。小島毅氏は、こう指摘する。
水戸学は「日本」の歴史を天皇中心に描くことによって、ナショナルな意識の中心として、天皇を「日本および日本国民統合の象徴として」活用したのである。[…]その後、「日本人」はさらに拡大する。琉球・台湾や朝鮮半島で生まれ育った、エスニックにはヤマトに属さない人々も、ロシアや中国・アメリカ相手に戦死すれば立派な英霊である。天皇の錦の御旗のもとに集う者はすべて「日本人」なのだ。(『靖国史観』pp.184~5)
つまり近代の主権国家の代わりに、家への忠誠の拡大版として天皇家への忠誠という倫理が生まれ、天皇のために死んだ英霊をまつる神社として靖国神社ができたのだ。それは非合理主義ではなく、ネーションなき日本で国家意識を生み出す概念装置だった。朝鮮人は植民地支配のもとでは二級市民だったが、戦死して英霊になることで、内地と同格の「日本人」になる。だから彼らは人一倍勇敢に戦い、死んでいったのだ。

韓国人の反日意識の背景には、いまだにネーションとして成熟できない自国を統合するために偽造した、日帝に「強制」されたという物語がある。これは嘘だが、そのトラウマをつくったのは日本の植民地支配である。その呪縛を解き、日本が(朝鮮を侵略したのではなく)朝鮮人を侵略戦争に動員した歴史を反省することが、本質的な和解の手がかりになるかもしれない。