朝日新聞が慰安婦問題を吉田調書と一緒に出したのは、ダメージを薄めるためだろうが、この二つの誤報には共通点がある。それは多くの人が指摘する、正義のためなら事実を曲げてもいいという社風である。
同業者からみると朝日の記者は思い込みが強く、話が画一的なのだが、彼らのツイッターをみると、自分では「自由闊達な社風」と思っているようだ。その原因は私の印象では、朝日の記者は正義の存在を信じているためだと思う。NHKも読売も、権力に片足を突っ込んでいるので、自分が純粋だと思ったことはないが、朝日の記者は自民党政権に対峙して純粋な正義の立場から「国家権力を監視」しているつもりなのだ。

このため55年体制では社会党を支援し、最近では民主党政権を支援する姿勢をはっきり打ち出し、それにそって報道した。原子力については、2011年7月に論説委員室が「原発ゼロ」を打ち出し、社会部(特報部)がそれにそって「プロメテウスの罠」などの主観主義報道を続けた。あれを許した結果が、今度の吉田調書の大失態になったのだ。

このような党派性は、知識人の永遠の課題である。有名なカミュ=サルトル論争では、カミュが『反抗的人間』で革命のために殺人を容認する共産党を批判したのに対し、サルトルは、すべての価値観を疑う反抗的人間は特定の党派にコミットしないので、社会を変えることができないと批判した。しかし彼ものちに共産党と訣別し、「反抗的人間」になった。

団塊の世代までは、サルトル的な発想が普通で、客観報道なんて「ブル新」の寝言だと思っていた。丸山眞男が全共闘を批判したのは、この点だった。彼の出発点は(東大哲学科の主流だった)新カント派で、ここでは事実と価値は明確に分離され、SeinからSollenは導けないとされた。これが真理と党派性を混同するマルクス主義になじめなかった最大の理由だという。

ただ丸山のマルクス理解は、レーニンの素朴実在論に近い。これに対して廣松渉は、マルクスに「価値観(イデオロギー)が事実を拘束する」という新カント派を超える認識論を見出した。これはデリダなどと同じ解釈で、文献学的には正しいが、すべての価値観を相対化すると革命はできない。

朝日の場合も、理念なきL正統である自民党政権に対抗するには、何かの理念が必要だったのだろう。それが終戦直後には憲法第9条であり、ある時期までは社会主義だった。80年代までの朝日新聞は「悔恨共同体」の知的遺産を継承し、自民党を監視する(理念だけの)O正統として、それなりの役割を果たしたともいえる。

しかし90年代には社会主義が崩壊し、平和憲法も風化したため、アジアとの和解とか反原発とか、朝日もいろいろな正義をさがした。「慰安婦問題の本質」が女性の人権だなんて、90年代には言っていなかった。彼らはそれを日本軍の戦争犯罪として糾弾したのだ。それが強制連行があやしくなったら、広義の強制やら女性の尊厳やら、あとから取って付けたご都合主義の「本質」が出てきた。

気の毒だが、そういう正義の賞味期限はとっくに切れた。朝日の記者でさえ、憲法第9条さえ守っていれば中国が攻撃してきてもOKと信じている人はいないだろう。そういう無理が今回、劇的な形で表面化したともいえる。もう彼らの好きな反権力という気負いを捨て、事実を淡々と報道する普通の新聞になったほうがいいと思う。