国家学のすすめ (ちくま新書)
アゴラの書評の補足。ナショナリズムは確かに危険な物語だが、それなしで国家は成り立たない。それが17世以降のヨーロッパでつくられた「想像の共同体」であることも事実だが、それは虚偽であることを意味しない。すべての共同体は、想像上の物語だからである。

坂本多加雄は「国家の本質は物語である」と説き続けた。彼も丸山眞男に従って国家はフィクションだという認識から出発するが、それは共有される物語として人々の脳内に実在する。彼が批判するのは、女性国際戦犯法廷を企画した高橋哲哉氏の「ナショナル・ヒストリー」否定論である。
高橋氏は「日本人は自国史を語る資格がない」という。その代表的な事例が、慰安婦の強制連行だ。彼は元慰安婦の物語だけを信じて、日本人の「戦争犯罪」を指弾する。被害者であるアジア諸国のナショナリズムは肯定するが、加害者の日本はナショナル・ヒストリーを語ることを禁じられ、「被害者の立場」で歴史を語るしかないという。

坂本も指摘するように、そんな「国際社会のルール」は存在しない。ヨーロッパでは何百年も戦争がくり返され、加害者と被害者をわけることはできない。実際に手を下した世代がいなくなったら、忘れることが世界の常識だ。そもそも高橋氏の依拠する慰安婦の強制連行なるものがでっち上げだったのだから、彼の論理は根底から破綻している。

ナショナリズムは高橋氏のいうような帝国主義のイデオロギーではなく、人類が歴史とともに古くからもつ共同体の物語が近代国家で制度化されたものだ。そして明治以降の日本が選んだのは、南進するロシアから自国を守るという物語だった。韓国の併合も満州の占領もそのための戦略だったが、最大の失敗は日英同盟を破棄して「大東亜」の夜郎自大に陥ったことだった。

戦後は冷戦という物語が生まれたが、これはロシア革命というアクシデントのもたらした一時的な対立で、「より長期にわたるグローバルな文明的な対立の一コマだったのではなかろうか」と坂本はいう。
戦後の日本では長きにわたって保守勢力と革新勢力が、イデオロギーや政策の上で対立したとされてきた。しかし、以上のような文明史的視点に立つと、それはソ連や中国などユーラシア中心志向派と、アメリカや台湾、東南アジアなどユーラシア周辺部志向派との対立であったことがわかる。(p.244)
このように二つの「大きな物語」を考える文明論は、福沢諭吉の「脱亜論」や内藤湖南の「支那論」から梅棹忠夫の「生態史観」に至るまで、日本の知識人の主流だった。坂本もこの観点から、政治の対立軸を定義しなおすべきだと論じる。中韓のような儒教文化圏と日本は、冷戦期の米ソより相容れないのかもしれない。

ただし坂本が早すぎた晩年に、冷戦期の物語を否定する「新しい歴史教科書」を書こうとした運動は、時代錯誤の皇国史観に回収されてしまった。冷戦というエピソードが終わった今、福沢の時代に立ち返って新しい物語を再構築する仕事は、われわれに残されている。