反哲学入門 (新潮文庫)
木田元氏が死去した。彼の専門はハイデガーだが、私が一番おもしろかったのは『マッハとニーチェ』である。西洋的な合理主義に反抗する危険思想だったニーチェが、日本では何の抵抗もなく受け入れられたのは、日本人が「天然ニヒリスト」だからだろう。

本書はもっとポストモダン寄りで、ここでも丸山眞男が出てくる。西洋の存在論は、世界を<つくる>ものと考えているというのがハイデガーの批判で、彼はニーチェの延長上で<なる>ものとして存在論を考える。その延長上にあるのが、丸山の「古層」だという。
ハイデガーが<つくる>存在論を克服しようとしたのに対して、丸山は初期には<なる>政治意識をプレモダンなものとして克服しようとした。しかし丸山も晩年には、両者を並列して見ていた。彼の「古層」にはフーコーも注目してフランスにまねき、レヴィ=ストロースは手紙をくれたという。それは東洋の反デカルト主義とみえたのだろう。

どちらが本源的かというと、<なる>のほうだろう。<つくる>に類する神話は、ユダヤ教の系統以外にはほとんどみられない。最近の研究によると、ユダヤでも石器時代には<なる>型だったようだ。ギリシャ神話も<なる>型で、ソクラテスまではそういう原初的な信仰を残していた。それを<つくる>型に変えたのがプラトンだったという。

この意味では、ニーチェの闘った「ヨーロッパのニヒリズム」も、たかだか数千年の伝統で、それが世界の主役になったのも産業革命以降の300年ぐらいのことにすぎない。日本の<なる>の伝統は歴史的にも圧倒的な多数派だが、それが近代社会に適しているかどうかは別の問題である。

逆に文化の世界では、ニーチェがワーグナーを批判し、ハイデガーがヘルダーリンで哲学を語ったように、過剰に<つくる>西洋の芸術は行き詰まっている。丸山も「『である』ことと『する』こと」という有名な論文の最後では「学問や芸術において大事なのは機能的な<する>ことではなく、作品<である>ことだ」と書いている。

こう考えると、コンテンツの世界で日本が最先進国であることも不思議ではない。日本の<なる>文化には、製造業以外にもイノベーションの可能性があると思う。