大川周明 (岩波現代文庫)
日本維新の会と結いの党が合併してできる新党の党名に「維新」の名を残したい、と橋下徹氏がいっているそうだ。ちなみにウィキペディアによれば「昭和維新」とは「1930年代の日本で起こった国家革新の標語」で、代表的な事件は五・一五事件や二・二六事件である。

その五・一五事件の首謀者として検挙されたのが、大川周明である。彼は一般には「ファシスト」として危険視されるが、その思想は蓑田胸喜や頭山満などの通俗的ファシズムとは違い、北一輝と並んで戦前の右翼思想の最高峰といえよう。
大川が北と似ているのは、貧しい東北地方に生まれ育ち、米騒動などを見て民衆を救済するために国家社会主義を選んだ点だ。さらにそこから帝国主義の植民地支配を憎み、日本が先頭に立ってアジアを解放するアジア主義を構想したのも、北と似ている。違うのは、北の考えていた革命がレーニンに近い社会主義だったのに対して、大川が「日本精神」による東洋的専制を考えていた点だろう。

こういう思想は皇道派青年将校に強い影響を及ぼし、天皇親政による革命政権の樹立をめざすクーデタをもたらした。大川のもう一つの特徴はコスモポリタニズムで、早くからインドやイスラムに関心をもち、「物質主義・個人主義」の西洋に対して「宗教的な有機体」としての東洋を対置し、満州国の建国を支持した。

大川は「アジアとの連帯」を理想としていたので日中戦争には反対し、日米開戦にも反対した。しかし戦争が始まると、ラジオ演説で『米英東亜侵略史』を発表し、「大東亜共栄圏」のイデオローグになった。東京裁判では民間人として唯一、A級戦犯として起訴されたが、法廷で前に座った東條英機の頭をたたくなどの奇行で、精神異常として裁判から除外された。

彼の思想はいわれるほど支離滅裂なものではなく、明治国家の尊王攘夷思想の延長上にあるともいえる。列強の帝国主義に対してアジアの民族主義を鼓舞し、日本がそのリーダーになるという思想は、大東亜戦争のスローガンにも使われた。結果として戦後、アジアの植民地が解放されたことも事実である。

しかし植民地支配からの解放をとなえた日本が、満州や中国を軍事的に支配したのは矛盾していた。さらに根本的な問題は、こうした植民地支配が大赤字だったという事実である。それは軍部に寄生する一部の財閥の利益にはなったが、財政的には大失敗で、日本が持たざる国に転落する原因になった。

大川の盲点は、アジア主義という思想はありえないということだろう。各民族のナショナリズムは戦後の独立運動でも発揮されたが、それを超える「アジア」という実態はなく、特に中韓と日本はまったく相容れない。イスラムやインドに至っては別世界である。「東洋」という言葉には「西洋ではない」という意味しかないのだ。その多様な文明を一つにまとめる「共栄圏」なんて、もともと不可能だった。