コミュニケーションの起源を探る (ジャン・ニコ講義セレクション 7)
アゴラの書評を書いていて、学生時代にゼミで聞いた廣松渉と大森荘蔵の議論を思い出した。この本で紹介している「意図の共有」という概念はトマセロの説だが、いま思えば廣松の共同主観性はこれのことだったのかもしれない。

大森は共同主観性を「ホーリズムだ」と批判し、ウィトゲンシュタインの「あなたは私の歯の痛みがわかるか」という問題を出したのだが、廣松は「わかる」と答え、「最初に個人をモナドと考えると、その相互認識はインターモナディックでしかない。言語や社会は生まれない」と反論した。彼は共同主観性をintersubjectivityとは区別していたのだ。
当時は強引な議論だと思ったが、最近の実験で、他人の意図を理解する共同主観性が人類に固有だということがわかってきた。類人猿には、他の個体の意図がわからないのだ。たとえば人間の赤ん坊とチンパンジーに箱を複数与えて、どれにお菓子が入っているか目で合図すると、赤ん坊はお菓子の入っている箱を取るが、チンパンジーは取れない。しかし声としぐさで何かを命令すると、チンパンジーもわかる。

これは微妙な違いのようだが、非常に大きい。類人猿には命令はわかるが、協調行動がとれないのだ。社会性昆虫は複雑な構造をもった巣をつくるが、猿はそういう住居をつくらない。2匹のチンパンジーが1本の丸太を運ぶことができないからだ。これに対して、人間は1歳の子供でも親の態度からその考えを読み取って迎合しようとする。

言語はこのような共有意図の生み出したものだ、というのがトマセロの仮説である(まだ論争があるようだが)。他の集団との戦いが日常的に続いていた石器時代には、協調行動を取れるかどうかが生死をわけた。最初の協調のシグナルは身振りだったと思われるが、これは伝達範囲が限られ、戦争のシグナルとしては性能が悪い。声で他人に意図を伝えられる個体が生まれると、戦争で勝ち抜く確率が上がっただろう。

だから人類と猿をわける決定的な境界は言語ではなく、この協調行動である、とトマセロはいう。相手の意図を理解する能力ができると、自然淘汰で身振りが音声や文字に進化するのはそれほど不連続な進化ではなかっただろう。しかもコミュニケーション能力は生存確率とリンクしていたので、食欲や性欲と同じぐらい根源的なコミュニケーション欲求がそなわったものと思われる。

この共同主観性は大きなスパンドレルで、コミュニケーションを強めるために一つの記号を共有する宗教が生まれ、文化が発展した。もちろん共同ではない主観性もあり、歯の痛みはチンパンジーにもある。しかし社会を成り立たせているのが人々の根源的な協調性だとすると、それをチンパンジーと同列の個人主義に還元する新古典派経済学は、社会科学としては類人猿ぐらいの発展段階である。