China Transformed: Historical Change and the Limits of European Experience
JBpressにも書いたが、中韓が反日で連帯するのは必然性がある。儒教の伝統は、共産主義とか資本主義とかいうイデオロギーよりはるかに強く彼らを呪縛しているからだ。

中国の王朝を、ブルボン家やロマノフ家のような専制君主をモデルにして考えるのは間違いだ、と本書はいう。中国の王朝は、むしろ伝統的に弱い国家だった。何しろ人口が多すぎるため、官僚も軍隊もそれに比べるとわずかなもので、地方には皇帝の権力も及ばなかった。
だから王朝の最優先の目的は戦争を抑止することなので、民衆が互いに連絡をとって反乱を起こすことを恐れた。このため一部のエリート以外は字も読めない状態に置き、官僚が情報を独占した。19世紀まで公教育は(科挙の予備校以外は)存在せず、科挙も「学歴不問」だった。

このような愚民政治を孔子がとなえたわけではないが、『論語』がそれに利用された。治安を守るためにもっとも重要なのは、民衆が不満を抱かないことなので、エリート官僚が民衆の生活を心配する儒教的な温情主義が強かった。しかしウッドサイドも指摘するように、儒教にはキリスト教のように民衆を熱狂させる物語がないので、官僚は民衆との距離を埋めることができなかった。

民衆を分断して支配する中国の伝統は、孫文にも中国共産党にも受け継がれている。最近のビッグデータ解析によると、中国政府が監視しているのは政府批判ではなく団体行動だという。「市長はカネに汚いし、たくさん愛人を囲っている」と批判してもいいが、「ひどすぎる。抗議に行こう」と発言したら削除される。

こうした愚民政治は、平和を守って秩序を維持するという目的には適しており、ヨーロッパで間断なく戦争が続いたのに比べれば、中国のほうがましだったという見方も成り立つ。しかし民衆に情報を与えないで団結を防ぐ中国の伝統は、インターネット時代にいつまで維持できるのだろうか。