「過激派」といわれた新左翼系セクトの友人が、突然アパートに泊まりにきた夜という記事でちょっと思い出したので、個人的メモ。
私も大学時代、サークルの部員4人が内ゲバで殺されたときは、さすがに恐かった。パン屋の前で公衆電話をかけていると私の前で30分かけてパンを買う客がいたり、喫茶店で前に見たことのある客が隣の席に座ったり、気持ちの悪いことが続いたあと、(大学に連絡していない)下宿の郵便受けに何かを通告するように某党派の機関紙が入っていた。身の危険を感じて、友達の家を泊まり歩いた。

当時、そういう話は珍しくなかった。キャンパスが血の海になったことも1度や2度ではないが、いま思えばひどい勘違いだった。この記事に書いてある三里塚なんてナンセンスもいいところで、ごねる農民にネタのなくなった極左が合流して、政治的に利用しただけだ。それでも当時は、まじめに受け止める人もいた。まだマルクス主義という宗教が生きていたからだ。

全共闘運動は、一種のバブルだった。その規模は国際的だった。フランスでは革命運動が政権を追い詰め、アメリカでも極左のマクガバンが大統領候補になった。当時は頭の悪い学生でも「反帝反スタ」とかいえば、格好よく見えて女にもてたので、学生運動にコストをかけて「おれ意識高い」とシグナリングするために、デモに行ったのだ。

しかし極左は理論闘争をまじめにやったので、社会主義の間違いにも気づいた。彼らはソ連や中国を「スターリン主義」と批判したが、それはレーニンやトロツキーと本質的に違うものではない。社会主義は80年代末に崩壊したのではなく、理念としては70年代までに崩壊していたのだ。経済システムとして社会主義が成り立たないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。1969年にピークを記録した全共闘運動は、5年もたたないうちに消滅した。

歴史は繰り返される。一度目は悲劇として、二度目は笑劇として、とマルクスはいったが、今の反原発派は笑劇にもならない。そこには理論もなければ、未来社会のビジョンもない。それはリスクを客観的に評価できないでマスコミに振り回される情報弱者の運動だ。全共闘運動の担い手は当時のエリートだったが、反原発派の中心は団塊老人と放射能ママ。昔の運動と共通するのは「世の中で盛り上がっている」という感情だけである。

しかしバブルは、いつか終わる。その後には、何も残らない。全共闘運動が何をめざしていたかを問われても、ほとんどの人は何も答えられない。それは政治的にはナンセンスだったが、マルクス主義を乗り超えることで学生は大人になり、社会を客観的に見られるようになった。反原発バブルも終わったが、それは何も残さないだろう。それは昔の学生運動をなつかしむ「生きた化石」の演じる笑劇だからである。