天皇はなぜ生き残ったか (新潮新書)
「よもの海」のエピソードで印象的なのは、日米開戦の重大な決断が、和歌で表明されたことだ。ここに天皇制のコアがある。

本書もいうように、天皇が武家の上位の「権威」だったという権門体制論には疑問がある。これは武家=軍事、公家=行政、寺家=祭祀という権門の調整機能を朝廷が果たしたという仮説だが、そもそも中世の日本にそんな「体制」を構築するような国家があったのか。
江戸時代まで、クニといえば薩摩国とか出雲国などの「藩」(これも明治時代の造語)であり、日本という国家が民衆に意識されたのは明治以降である。天皇という言葉が正式に使われるようになったのも明治時代で、江戸時代のミカドは政治的影響力のない公家の一つだった。当時の天皇家は貧乏で、即位の式典どころか葬式のできない天皇もあった。

しかし天皇に関する古文書は武家よりたくさん残っているので、歴史学者には天皇家の影響力を過大評価するバイアスがある。後醍醐天皇もその一つで、「建武の中興」はわずか3年2ヶ月で、小泉政権より短かった。後醍醐はプロイセン型の絶対王制をめざしたが、14世紀にそんなものが続く客観的条件は何もなかった。

それでも天皇家が名目的な君主として生き残ったのは、鎌倉以降の日本の政権がほとんど軍事政権だったことが一つの原因だろう。統治のコアは武力だが、あからさまな暴力だけでは長期政権は維持できない。中国で儒教が、ヨーロッパでキリスト教が必要とされたように、全国の人々に共有される正統性が必要だ。それが日本では天皇というシンボルだった。

だから武家政権が成熟するに従って、天皇家は文化的な機能に特化するようになった。特に重要だったのは年号で、これは時間の座標だから、武士も正確に使わざるをえない。それを決める権限も江戸時代には幕府に移ったが、形式的には天皇家が暦を決めていた。もう一つの機能が言語の統一で、歴代の天皇にとって和歌は必須だった。歌会始は、16世紀から毎年続いている。

このように権力の実体を完全に失った天皇は、江戸時代の長い平和の中で「国のかたち」を保つ形式として、辛うじて生き残った。しかし平和の中で暇を持て余した武士は儒学を勉強し、天皇を中国の皇帝と同一視して「王政復古」をとなえる水戸学などの尊王思想が出てきた。「古きよき日本を取り戻す」というのは安倍政権と同じ詭弁だが、制度疲労の極に達していた江戸幕府を倒すイデオロギーとしては機能した。

昭和天皇が和歌を使ったのは、このように天皇家が言葉をつかさどる伝統を踏まえていた。しかも明治天皇の御製を読み上げる「本歌取り」のような複雑な形で行なわれたため、彼の真意は21世紀までわからなかった。君主が開戦の意思決定を文学で表現する国は、世界にも類をみない。このように高度に洗練された文化が、日本の誇るべき伝統だと思う。