アゴラの書評に細かいことを補足しておこう。明治憲法に統帥権の独立という欠陥があったことは今日ではよく知られているが、当時それを認識していたのは天皇を初めとするごく一部のエリートだけだった。それは意図せざる「バグ」だったのか、それとも意図的な「仕様」だったのだろうか。
それは明治憲法を書いた伊藤博文や井上毅の設計した仕様だった、と坂野潤治氏は書いている。井上は各国の立憲君主制を調査した結果、イギリスのそれは「国王は徒に虚器を擁するのみ」で君主に実権がないと考え、プロイセン型の制度を明治憲法に実装した。

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両者は立憲君主制といってもまったく違う制度で、議院内閣制のイギリス型は共和制に近いが、皇帝が大臣や将軍を自由に任免できるプロイセン型は絶対王制に近い。片山杜秀氏の指摘するように、明治憲法はプロイセンよりさらに念の入ったタコツボ型で、内閣は憲法に規定がなく、閣僚は天皇を直接「補弼」する臣下で、内閣総理大臣はその一人にすぎない。陸海軍も互いにバラバラで、その方針は「軍事機密」として内閣にも説明しなかった。

坂本多加雄氏もいうように、伝統的な天皇制はイギリス型に近かったのだが、議会を信用しない伊藤や井上は、儒教思想に近いプロイセン型を選んだ。板垣退助や植木枝盛も気楽な「万年野党」のほうがよかったので、立法も組閣もできない帝国議会ができた。伊藤はその間違いに気づいて政党内閣をつくろうとしたが、山県有朋は「超然内閣」を公言して、この構造を守った。

1930年代に軍部が暴走を始めると、政党がコントロールしようという動きが強まるが、犬養毅も高橋是清も暗殺され、ブレーキをかける人がいなくなった。「挙国一致」で軍部をおさえようというのが近衛文麿のつくった大政翼賛会だったが、これも「天皇の大権を犯すもの」として攻撃され、組閣もできなくなった。このとき「護憲」を主張して内閣を激しく攻撃したのが、北昤吉(北一輝の弟)などの右翼だった。北はこう書いている。
総理大臣の権力を法政上極度に拡大して独裁者に近きものを設定すれば、非常時向きとも認められるが、之は幕府政治を復活するもので、日本の国格と国憲とが容認し難きもので、大権干犯の疑義さへ生じる。(「大政翼賛会の性格に就いて」)
これが悪名高い「統帥権の干犯」だが、憲法解釈としては正しい。明治国家を破壊したのは、実定法至上主義の「護憲派」だった。国民の生命より憲法第9条のほうが大事な朝日新聞は、戦前から一貫して護憲派である。