Why Europe Grew Rich and Asia Did Not: Global Economic Divergence, 1600–1850
最近の歴史の教科書は昔ほど「自虐的」ではないが、いまだに「オリエンタリズム」は強い。たとえばイギリスの「産業革命」は綿工業で発展し、その原料としてインドを植民地支配して綿花を輸入したという話は、いまだにどんな教科書にも出ているが、本書が詳細に論証しているように、事実はその逆である。イギリスはインドから綿織物を輸入していたのだ。

インド産の綿布(キャリコ)は世界市場で最大のシェアを占め、品質がよく安価だったため、イギリスでもブームになった。次の表でもわかるように、産業革命初期に西アフリカで売られていた綿織物はインド産のほうがはるかに多く、イギリスは18世紀末になっても追いついていない。
キャプチャ

しかしイギリスには、インドの綿織物は輸入されなくなった。キャリコに押されて毛織物が売れなくなった毛織物業者が政府に圧力をかけ、1700年にキャリコ輸入禁止法が制定されたからだ。このあとイギリスの綿織物業者は、インドから輸入したキャリコのプリント柄をまるごとコピーして大量生産し、世界に輸出した。

インドがカースト制で身分差別のひどい遅れた国だというのは、イギリスが植民地支配してからつくった虚像である。最近の研究によれば、近世以前のカーストはゆるやかな職業集団で、カーストの強い地域のほうが成長率が高かった。それはギルドのように、長期的関係で取引の安全を確保したからだ。これを厳格に制度化したのは、イギリスの植民地支配だった。

17世紀までインドはアジアの貿易の中心であり、イギリスの東インド会社はそれを輸入する総合商社だった。その地位が逆転したのは、18世紀以降、イギリスが保護貿易を行なうとともに、自国の産業を育成するターゲティング政策をとったからだ。経済学者は現在の産業政策や重商主義を批判するイメージで、昔からこうした政策には効果はなかったと思いがちだが、300年前には国家の介入は、よくも悪くも効果的だったのだ。

こういう「遅れたインド」というイメージができると、それを利用してインドを直轄支配する帝国主義者が出てくる一方、それを批判する左翼も出てくる。そのうちもっとも有名なのは、サイードが『オリエンタリズム』で激しく批判した人物である。彼は1853年にイギリスの新聞にこう書いて、ムガール帝国を滅ぼした大英帝国を賞賛した。
問題なのは、アジアの社会状態における根本的革命なしに人類はみずからの使命を果たせるか、ということである。果たせないのであれば、イギリスはどんな罪をおかしているにせよ、この革命を実現することで、意識しないで歴史の道具となったのである。したがって一つの古代世界の崩壊するさまが個人的な感情にとってどれほど苦痛であろうとも、歴史の観点からすれば、ゲーテとともに次のように語ることが許されるのである。

 この苦しみはわれわれの愉楽を増すことになるのだから、
 それがわれわれを苦しめるはずがあろうか。
 ティムールの支配は、
 無数の命を滅ぼしたのではなかったか?
信じられない人が多いと思うが、これはマルクスの記事である(訳書pp.122~3)。