マルクス・コレクション VI フランスの内乱・ゴータ網領批判・時局論 (上)
いま書いている本は(たぶん多くの人が驚くと思うが)マルクス論である。これは5年前にハイエク論を書いたとき編集者に約束したのだが、思ったより時間がかかった。さすがにマルクスは、ハイエクより巨大だった。彼の草稿まで読み直して驚いたのは、彼がまだ現役だということである。経済学者としてはだめだが、思想家としてはポストモダンも敬意を表する最先端である。

最大の難点は、彼が党派的な言葉で書いたため、その本質的な意味がわかりにくいことだ。たとえばいろいろ論議を呼んだプロレタリア独裁がなぜ必要になったかは、『フランスの内乱』を読むと明らかだ。マルクスは有名な一節で、パリ・コミューンの輝ける敗北をこう総括する。
コミューンの真の秘密はこうだったのだ。すなわちコミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するための、ついに発見された政治形態であった(本書p.36)。
これはマルクスがコミューンの戦術的な誤りを総括した部分である。ブルジョワジーがビスマルクと結んでコミューンを攻撃したとき、コミューン政府はプロイセンと講和予備条約を結んだ。プロイセンは正式の戦争ではなく、集団テロでコミューンを破壊したのだ。

マルクスはこうしたコミューンの「平和主義」が誤りだったと総括し、プロレタリア独裁という戦術を提案した(この言葉は『内乱』には出てこないが、その4年後の『ゴータ綱領批判』に出てくる)。それは彼が未来社会として思い描いていた協同組合型の社会の欠陥に気づいたからだ。

協同組合は、単純再生産のスタティックな社会である。人々が現状を維持して平和に暮らすのには向いているが、戦争には弱い。それが歴史上のコミューンがほぼ全滅した原因だ。戦争に勝つには権力を独裁者に集中する国家が必要であり、市場で勝つには資本家に権力を集中する資本主義が必要なのだ。

日本型資本主義は労働者管理の協同組合だが、それがかつて高度成長を実現できたのは、成長によって資本家も労働者も豊かになるという利害の一致があったからだ。このような場合はガバナンスは必要なく、経営者は誰でもつとまる(Aghion-Bolton)。

しかし今のように組織内の利害対立が先鋭化したとき、ソニーのような仲よし企業は行き詰まる。平井社長のような「いい人」には、独裁者はつとまらない。残余コントロール権がみんなにあり、誰にもないからだ。マルクスはこの欠陥に気づいて、それを独裁で乗り切ろうとしたが、それはレーニンによって文字通りの独裁になってしまった。

レーニンが示したのは(よくも悪くも)独裁によってしか革命政権は生き残れないということだ。日本の平和ボケした経営者には、グローバル資本主義の戦争は乗り切れない。資本主義の場合は、ビスマルクが来てもいいのだ。たとえばKKRがソニーを買収して何百もある子会社を売却すれば、ソニーはよみがえるかもしれない。