理研の記者会見はひどかった。ありえない「過誤」が重なったとか、証拠もないのに「悪意はない」とかいう説明は、説明になっていない。これを聞いていて頭に浮かんだのは、accountabilityという言葉だ。これは対応する日本語がないので「説明責任」という意味不明の言葉に訳されるが、これ自体が日本社会にアカウンタビリティが欠落していることを示している。
これは単なる「説明する責任」ではなく、the quality or state of being accountableつまり説明のつく状態のことである。画像の「取り違え」とかコピペとかいう行為は、公の場で説明できない。その責任を課すことによって、不正行為のインセンティブをなくすのだ。フクヤマによれば、近代国家の必要条件はデモクラシーではなくアカウンタビリティである。

ブリュアも、イギリスが近代化のトップランナーになった理由はアカウンタビリティだと述べている。イギリス軍が人口も軍事力も圧倒的に優勢なフランス軍に勝ったのは、巨額の国債で軍事費を調達する金融イノベーションと、その債権者に対して償還の確実性を説明する責任だった。国債の財源は税だが、納税者の代表である議会は国王を監視し、説明を求めた。これに対してフランス国王は官職売買で戦費を調達したため、政府が腐敗して戦争に負け、フランス革命が起こった。

つまり債権者や納税者に説明しなければならない(説明できなければ財政が破綻する)という責任が、イギリスの近代化をもたらした原動力だったというのだ。このアカウンタビリティを担保する制度が法の支配である。「今回だけは内密に」とか「あれだけがんばったのだから大目に見てやろう」といった例外のない非人格的ルールで政府を拘束し、個人を権力の濫用から守ることが近代国家の本質である。

日本はイギリスに似ているが、このアカウンタビリティが決定的に欠けている。それは属人的な徳治主義で秩序を保っているからだ。政府は原発を止めるように電力会社に口頭で行政指導し、その損害には責任を負わない。理研の幹部には、説明することが彼らの納税者に対する責任だという自覚さえないだろう。

幹部が「データの改竄まで事前にチェックするのは無理だ」と答えたのは誤りだ。違反を事後的に厳格に処分して学界から永久追放するルールで、そういうモラルハザードは防ぐことができる。ばれたら人生が台なしになるリスクが少しでもあれば、データの改竄なんかしない。ポズナーのいうように、法とは例外を許さない復讐装置なのだ。

4月からのアゴラ読書塾では、歴史をさかのぼって日本が近代国家になる条件を考えてみたい。