日本陸軍と内蒙工作 関東軍はなぜ独走したか (講談社選書メチエ)
アゴラこども版で解説したように、「南京大虐殺はあったか」という論争には意味がない。南京陥落の際に民間人の殺傷事件があったことは事実で、それが他国の領土だったことも明らかなのだから、これが侵略であることは争えない。中国のいう「30万人」が大げさだとしても、何もなかったことにはできない。

しかし日本軍の中国侵略が何を目的にして行なわれたのかは、いまだにはっきりしない。これまでの歴史学の主流では、陸軍の一貫した膨張主義によって「15年戦争」が計画的に行なわれたことになっているが、本書は一次史料にもとづいてこれを否定する。この15年間(実際は14年)、陸軍に一貫した方針はなかった。軍の首脳部は、中国に戦線を拡大することには反対していた。
15年戦争の発端になったのは1931年の満州事変だが、その本来の目的は来るべき対ソ戦にそなえることだった。これを主導した石原莞爾も、それを追認した永田鉄山も、華北に戦線を広げる意図はなかった。しかし(当時の満州を支配していた軍閥)張学良の無抵抗策によって満州が意外に簡単に占領できたため、関東軍は内蒙古へ戦線を拡大した。

内蒙古というのはゴビ砂漠の南部で異民族が多く、占領は容易と思われたが、中国軍の抵抗が強く、戦線は膠着状態になった。永田も石原も、一時は対ソ戦で背後から中国が攻撃するのを防ぐために中国をたたくという中国一撃論を提唱していたが、この状況をみて慎重派に転じた。

しかし関東軍の拡大は止まらなかった。参謀本部の作戦課長だった石原が関東軍参謀の武藤章に対して内蒙工作をやめるように説得したとき、武藤が「われわれは柳条湖で閣下がやったようにやっているだけです」と笑い飛ばしたのは有名な逸話である。1937年の盧溝橋事件は、関東軍にこの事態を打開するきっかけを与え、関東軍指令部は内蒙工作に軍を増派して目的のない中国侵略が始まった。

このように陸軍の意思決定は、現場の「力のある中間管理職」が起案し、それが組織内の「空気」になってから上層部が追認する下克上で行なわれた。今でも霞ヶ関では、法案は課長補佐が起案して課長が調整し、局長が政治家と交渉する。しかも関東軍の参謀総長は、石原のかつての上司である板垣征四郎だった。これは役所の天下り先に先輩がいるために切れないのとよく似ている。

関東軍の南進は、全体の指導者も一貫した戦略もなく、なし崩しに行なわれた。それは外交方針が迷走しながら、強硬派に重心が移っていったのと似ている。永田も石原も指導者になると慎重派に転じたが、現場の「空気」には勝てなかった。そして石原を追放して実権を握った武藤も軍務局長として日米戦争には反対したが、参謀本部の田中新一部長を先頭とする強硬派に押し切られて失脚した。

このように指導者が代わっても、下克上の構造は変わらなかった。情報も現場がもっているので、上部もそれを追認するしかなかった。こういう組織を統治できるのは「現場をおさえる力」のある調整型だけなので、最後は何の戦略もない東條英機が首相と陸相と参謀総長を兼ね、現場の暴走は止まらなくなった。

15年戦争は一貫した侵略戦争ではなく、そのつど短期決戦で勝負がつくと考えては失敗し、別の人物が同じことを試みては失敗する繰り返しだった。陸軍を暴走させたのは特定の軍国主義者ではなく、本書に出てくる多くの中間管理職の「空気」で方針を決める現場主義だったのだ。この構造は敗戦によっても変わらず、今も日本の失敗の本質である。