西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)
佐村河内事件は、「現代音楽」の追い込まれた袋小路を象徴している。18世紀までの音楽は、作曲者によって演奏される娯楽産業だった。ハイドンやモーツァルトなどの高級な音楽は、貴族がスポンサーになって育てた。しかしベートーヴェンは音楽を「純文学」にし、啓蒙思想の表現にしてしまった。第9の終楽章の、大衆が参加して人類の進歩に向かって前進する「エイエイオー」の気持ち悪さは、同時代人にも批判された。

19世紀のロマン派は、感動という商品を生み出した。合理化され、機械化された日常から逃避するため、人々は甘い旋律と重厚な響きを求めた。音楽は、神の死んだ時代に人々を救済する物語となったのだ。ニーチェが最初はワーグナーに求め、そして最後は強く憎悪したのは、このような神の代理を演じる作家の俗物性だった。
20世紀の音楽は、このような感動を拒否することから始まった。シェーンベルクは調性を否定し、音楽を中心のない世界に宙づりにした。彼はベルクやウェーベルンに「ドイツの音楽のヘゲモニーをあと100年間保証する法則を見つけた」と言った。「前衛音楽」という表現の中にも、こういう進歩主義が刻印されている。それは1920年代の、社会主義が人類の希望だった時代の産物だ。

そして20世紀後半、このような現代音楽が大衆から遊離して窮地に陥る一方、音楽産業はジャズやロックによって飛躍的に拡大した。そこでは作家の芸術的評価には意味がなく、大量生産したレコードを徹底した分業と宣伝で売ることが音楽産業の中心になる。作曲家は孤独な芸術家ではなく、プロデューサーやイベント屋としての才能を第一に求められるのだ。

この意味で佐村河内はハリウッド的なプロデューサーであり、新垣氏は孤独な下請けだった。こういう関係はゲーム音楽やAKB48などでは日常的で、19世紀的な作家性はすでに存在しない。ポズナーもいうように、もともと作家という概念がロマン派の生んだ幻想だったとすれば、それが21世紀に消失するのは必然であり、盗作とかゴーストライターとかいう概念も、そのうちなくなるのかもしれない。