NYタイムズの田渕記者のイルカ事件についてのツイッターに英語でコメントしたら、予想どおりたくさん「反論」がきたが、合理的根拠は何もない。クジラやイルカを殺してはいけないのは、旧約聖書の教えだからである。
海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、鱗のあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれと鱗のないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。(レビ記11:9~11)
このように「水の中にいるが鱗のないもの」というような両義的な生物は、禁忌になることが多い。地上の動物には鱗がなく、魚には鱗があるという分類の例外だからである。レヴィ=ストロースが示したように、人類の認識はこのように世界を文化/自然に分類することで成り立っているので、その分類を混乱させる例外を聖別して秩序を守るのだ。

ユダヤ教でクジラを食わない戒律は、ヒンドゥー教で牛を食わないのと同じローカルルールである。イエスはこのような律法を否定し、その普遍的な意味を問い返した。
律法学者やパリサイ人たちが、姦淫している時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセの律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らはそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。(ヨハネ8:4~7)
これは荒井献氏によると3世紀ごろに福音書に挿入された編集句だが、その出典はかなり古い伝承で、イエス自身の言葉である可能性が高いとされる。何よりも、これはイエスの思想を見事に表現しているからだ。

レビ記では姦淫も禁じており、石打ちの刑とされている。これは戒律では、妻は夫の私有財産だったからだ。日本でも結納になごりがあるように、当時のユダヤの結婚は一種の人身売買だった。姦淫を禁じているのは、それが財産権の侵害だったからだ。イエスは「潔白な者だけが石を投げろ」と反論して、この戒律の不合理性を相対化した。

イエスは、このようにユダヤ教の律法を絶対化する「パリサイ人」を批判することによって、普遍的な世界宗教を創造した。牛も豚も食ったことのない者だけがイルカ漁を攻撃しなさい――イエスはケネディ大使のような自民族中心主義を批判したのだ。