キリスト教による「神の支配」は近代国家の「法の支配」の原型であり、これがアジアと西洋をわける決定的な分水嶺である。この意味をゲーム理論で考えてみよう。
日本のような「閉じた社会」はありふれたもので、動物にもみられる。これは遺伝的に同型の個体による対称ゲームなので、ナッシュ均衡(進化的安定戦略)が実現するのは自然淘汰の結果で、合理的推論は必要ない。遺伝的に同質だと、渡り鳥や魚群が自然に集まるように自生的秩序が生まれる。

しかし一般のナッシュ均衡は、全員の利得関数が全員の共有知識になっていないと実現しないので、大きな社会では不可能だ。この問題を解決する簡単な方法は、全員の利得関数が同一の対称ゲームにすることだ。日本人のように同質性が高ければ、他人の行動は自分の行動と同じで予想できるので、「空気」で同調圧力をかければ秩序は維持できる。

進入停止
進入-1,-11,0
停止 0,10,0
しかし多くの異質な人々がまじる「開かれた社会」では、こういう方法は使えない。そこでプレイヤーに共通の情報を加えた解概念が、相関均衡である。たとえば交差点に車が進入するとき、両方がそのまま走ると衝突するので、図のようにナッシュ均衡は(進入、停止)と(停止、進入)の二つあり、均衡は決まらない。

このとき交差点に信号をつけて、赤の場合は止まるというルールを設ければ、最善の状態が相関均衡として決まる。このルールに従うことは合理的で、そこから逸脱するインセンティブはない。ここでは赤信号の意味についての情報(事前確率)を共有する必要があるが、ナッシュ均衡ほど強い条件ではない。

これは「利得関数についての共有知識」を「ルールについての共通事前確率」に置き換えただけで、テクニカルには大した話ではないが、インプリケーションはかなり違う。ナッシュ均衡を実現するには他人がどういうドライバーかという私的情報が必要だが、交通ルールは公的情報だから共有しやすい。

ギンタスの説明によれば、相関均衡はナッシュ均衡の共有知識の代わりに、最初に「自然(神)の手番」を加えたものだ。神の代わりは君主でもいいが、彼の行動が予想不可能な場合は共和制のほうがいい。大事なのは、各人の意思とは独立の「法の支配」を守ることだ。赤信号が人によって進入だったり停止だったりすると大混乱になる。

もちろん現実はこのように単純ではなく、規範は暗黙の伝統や習慣で決まる場合が多い。しかし少なくとも生命や財産にかかわる規範は神の(変更不可能な)ルールとして決めれば、他人のプライバシーを知る必要もなく、同調を強要する必要もない。このような情報効率性によって、開かれた社会は普遍性を実現したと考えることができる。

他方、閉じた社会は対称ゲームなので、ルールを決める手間はないが普遍性がなく、人々の行動(利得関数)をつねに一致させる必要がある。これは部族社会では可能だが、大きな社会では100人程度のタコツボに細分化しないと無理なので、下克上の逆エージェンシー問題が起き、部分最適に陥りやすい。

こう考えると、日本社会の直面している変化はかなり大きい。それは政治的な革命ではないが、日本人が1000年以上なじんできた自然な対称ゲームを人工的な相関均衡に変えることは、かつて宗教戦争を起こしたぐらい大きなルールの変更であり、長い時間がかかるだろう。