本の原稿メモを兼ねているのでキリスト教の話が続いて申し訳ないが、これは日本経済にも関係のある話。いま日本の財政が直面している最大の課題は社会保障を効率化することだが、政治家は知らんぷりしている。安倍首相の年頭会見でも、まったく言及されなかった。
もともと日本社会には、社会保障という考え方はなかった。頼母子講のような共同体の中の相互扶助システムは発達していたが、不特定多数を助ける制度はなかったのだ。これは世界の伝統的社会でも同じで、グラミン銀行のような相互扶助システムは多い。

こういうローカルな相互扶助はローマ帝国のような「大きな社会」では使えないが、ここでもキリスト教が大きな役割を果たした。それが隣人愛である。これを「自分と同じように隣人を愛しなさい」という教えだと思う人が多いだろうが、これはユダヤ教の律法で、この隣人はユダヤ人に限られる。イエスはこれに異を唱えた。それが有名な「よきサマリア人」のたとえだ。
ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリア人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、「この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います」と言った。

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか(ルカ10:30~36)
サマリア(中央パレスチナ)は当時のユダヤ社会から差別される地方で、取税人などのきらわれる仕事についている人が多かった。ここでイエスが言っているのは、真の隣人はユダヤ人かどうかで決まるのではなく、あなたをいたわってくれるかどうかで決まるのだ、というユダヤ民族主義を超えた普遍的な隣人愛である。

これが前にのべた歓待の倫理の基礎になった。民族を超えてすべての人を歓待することはキリスト教のセールスポイントだったので、各地の修道院が治療や介護に使われた。それはやがて病院や養老院として機能分化し、社会保障の原型になった。

しかしこのような普遍的な隣人愛は、費用負担の面で厄介だ。頼母子講では相互扶助の関係は明確だが、不特定多数を無差別に救うとフリーライダーが出てくるため、救済の対象はキリスト教徒に限られた。彼はどこかの教会に所属するので、その献金がキリスト教共同体を維持する資金として使われたのだ。

新約聖書には「献金を惜しむと天国に行けない」とか「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりむずかしい」という類の話が多い。金持ちにプレッシャーをかけて献金を集めることが、神のもとの平等を実現する手段だったのだ。このためルターは新約をドイツ語に訳すとき、教会を共同体(Gemeine)と訳し、これが共産主義や福祉国家に影響を与えた。

キリスト教的な社会保障システムのポイントは、資金源が自発的な献金にもとづいていることにあり、これが西洋で非営利組織が多い理由だ。日本には献金しないと天国に行けないという倫理がないので、NPOの経営はむずかしい。

社会が健全に機能する上では市場から脱落した人を救う必要があるが、それには受益を負担と対応させるシステムが不可欠だ。日本のように負担を考えないバラマキ福祉にしたら、フリーライダーで制度が崩壊することは初期キリスト教団でさえ知っていたのだ。