キリスト教思想への招待
キリスト教と植民地支配の関係は深い。というよりキリスト教が世界宗教になったのは植民地支配のおかげだ、と田川建三氏はいう。新約聖書はギリシャ語で書かれたが、それはギリシャ人が担い手だったからではない。当時のギリシャ語は、ローマ帝国の領内では今の英語のような共通語で、多くの人はそれとは別に現地語で話していた。

つまりヘブライ語で書かれた旧約とは違って、キリスト教は最初からグローバルだったのである。その教義もユダヤ人のための宗教ではなく、誰でも信仰のみによって救済されるという普遍主義だった。この決定的な違いに気づいたのが、パウロだった。彼はトルコ生まれのローマ市民で、ユダヤ人だがギリシャ語を話した。つまり彼は生まれながらの国際人で、ローマ帝国の領内を何度も旅行し、多くの(異なる言語を使う)大都市で布教した。
初期教団は皇帝崇拝を拒否したため弾圧されたが、パウロの十字架の神学によれば、現世で迫害されればされるほど天国に近づくので、皇帝が弾圧するとキリスト教徒が増えた。そして戦争が起こるたびに、キリスト教は広がった。各地の国家がローマに征服され、伝統的な宗教が破壊されると、キリスト教しか信じるべき宗教がなかったからだ。

4世紀になると、キリスト教はコンスタンティヌス帝に公認され、テオドシウス帝によって国教とされた。このあとローマ帝国は東西に分裂したが、名目的な領土は拡大した。その広大な領土を属州として間接統治するため、キリスト教が使われた。皇帝の軍事的な支配権が及ぶ面積は限られていたので、それ以外の植民地を統治するには、皇帝を頂点とする精神的な秩序が必要だったのだ。

このようにキリスト教は、ローマ帝国が植民地を間接統治するのに適した宗教になった。それが特定の国家権力に依存する「御用宗教」では植民地の住民は信じないだろうが、キリスト教を生んだのは祖国をもたないユダヤ人であり、それを信じて広めたのは民衆だった。キリスト教は、TCP/IPのように無色透明なデファクト・スタンダードとして世界に普及したのだ。

しかしキリスト教が入り込めなかった国もある。その最たるものが日本で、キリスト教徒は人口のわずか1%だ。その最大の理由は、植民地支配を受けなかったからだ。西洋諸国が植民地を支配するとき、その尖兵として宣教師が使われる。彼らも後進国に文明を伝えるために(国家の補助を受けて)布教するが、日本にはその必要がなかったのだ。

多くの国では、部族を超えた「国家」の意識はない。南スーダンのような部族紛争は、世界各地でいつも起こっている。こうした地域で近代国家を建設するには、各地の土着宗教を超える精神的な普遍主義が必要だが、日本では徳川幕府がキリスト教を弾圧したので、そういう価値体系がなかった。そこで500年ぐらい休眠していた天皇家が呼び出されたのだ。

したがって明治以降の天皇制は、キリスト教の出来の悪い代用品である。神の名のもとに殺された人の数は天皇よりはるかに多く、1億人を超える共産主義といい勝負だろう。共産主義も「キリスト教マルクス派」と考えれば、その破壊力は天皇制の比ではなく、これを使いこなすのに西洋諸国は1500年以上かかった。安易に「英霊」を呼び戻すのは危険である。