官僚制としての日本陸軍
靖国をめぐる議論では、合理的な戦略論ではなく「祖国のために死んだご先祖様に申し訳ない」といった感情論ばかり先走るのが日本人の特徴だが、戦争は感情でやるものではない。そういう要素もあるが、何よりも重要なのは戦力と意思決定である。

この点で、日本軍は重大な欠陥を抱えていた。天皇という「権力なき権威」を利用して政権を奪取した明治維新は、犠牲を最小限にした点では賢明だったが、国家を維持することは困難だった。天皇家が1000年以上も続いたのは(ごく初期を除いて)実権のない儀礼的な「みこし」として使われたからであり、それを国家権力の中心に置いた明治憲法には無理があった。
内閣は憲法で規定されず、統帥権は独立し、軍の中でも陸海軍がバラバラだった。それを辛うじて統合していたのは法の支配ではなく、長州閥などの派閥だった。初期にそれをになっていたのは元老だったが、山県有朋を最後に軍を統括する力はなくなり、1930年代には皇道派と統制派の派閥抗争が陸軍を動かすようになった。

初期に主流だった荒木貞夫などの皇道派は安倍首相のような精神主義で、機械化よりも夜襲や白兵戦による短期決戦を重視した。これに対して統制派の永田鉄山は合理主義で、「近世物質的威力の進歩の程度が理解できず、過度に日本人の国民性を自負する錯誤に陥っている者が多い」と皇道派の精神主義を批判していた。

しかし1935年に永田が暗殺され、二・二六事件のあとの粛軍人事で皇道派が一掃され、こうした強烈な個性をもつカリスマがいなくなると、派閥の人脈でつながるタコツボ組織だった陸軍は「下克上」に陥った。

陸相には実権がなくなり、満州事変のあと参謀総長には閑院宮が、軍令部長には伏見宮が就任して権限がなくなり、実権は作戦部長や作戦課長が握った。戦争の最中に、古来の儀礼的な意思決定システムであるまつりごとの構造に戻ってしまったのだ。
一見大きな力をふるったようでありながら、陸軍の現役の将官は1916年に首相となった寺内正毅以来、東條英機まで一人も首相になっていない。[それは]陸軍の自制でも余裕でもなく、弱さの現われであった。総力戦の時代には、統帥権の独立が時代遅れであることも明らかであった。しかし統帥権の独立を克服する方法がなかった。(本書p.88、強調は引用者)
こういう欠陥を補完しようと近衛文麿の大政翼賛会ができ、東條が25年ぶりに軍人として首相になり、陸相と参謀総長を兼ねた。

しかし長州閥の寺内が陸軍大将・元帥で陸相を10年近くつとめたのに対して、東條は陸相を1年余りやっただけで、首相就任のときやっと大将に昇進した気の弱いサラリーマンだった。軍事的リアリズムをもつ戦争のプロだった陸軍の統制派が力を失い、近衛に代表されるポピュリズムに押し流されたとき、それを止める力は東條にはなかった。

この弱さは現代の日本にも受け継がれている。「国家戦略」という言葉は踊るが、大局的な世界戦略は一度も立てたことがなく、文民統制も憲法には書かれていないのに「英霊」などの精神主義だけが先走る。自衛隊の戦力はすでに世界有数であり、このままでは著者もいうように、戦前と同じ弱い政府と強い軍になるおそれがある。政府が強い指揮権をもつ「戦争のできる国」に変えないと、また下克上の暴走が起こりかねない。