右翼の平和ボケは、自覚してないだけ左翼より重症だ。「東京裁判史観」がけしからんとかいう話は、その最たるものだ。東京裁判は敗戦国の指導者を殺すための政治的儀式であり、不公平もへったくれもない。国際法には、法の支配はないのだ。
そもそも戦犯裁判なんか、第一次大戦までなかった。昔の戦争では、敗戦国の王はもちろん、戦争を指導した貴族も皆殺しにされるのが当たり前で、それが彼らの特権の理由づけだった。貴族には戦争になったら真っ先に志願する義務があり、これがnoblesse oblige(高貴なる義務)の本来の意味である。

どこかで必ず戦争が起こっていた中世ヨーロッパでは、これはフェアなしくみだった。民衆は「戦争になったらあの人たちが死んでくれるんだからしょうがない」と思って税を負担したのだ。おかげで中世の都市国家の税率は30%にも達したが、文句をいう人はいなかった。徴税をめぐって革命が起こるのは、国家が大きくなってこうした税負担と義務の関係が不明になった近世である。

第二次大戦でも、オクスフォード・ケンブリッジの学生の死亡率は同世代の平均より高かった。彼らはみんな戦争に志願したからだ。逆に「学徒出陣」とかいって(国家の幹部となる)学生を後回しにした日本には、そういう権限とリスクは一体だという意識が欠けている。300万人もの兵士を殺して戦争に負けた指導者が殺されるのは当たり前だ。

この無責任の伝統は、現代にも続いている。東電が実質的につぶれているのに、株主の責任を問わないで納税者が賠償コストを負担することはありえない。それが株主の高貴なる義務だ。東電の破綻処理のような政治的リスクを回避して、ネトウヨの拍手する靖国参拝だけやっている安倍首相は、高貴なる義務を逃れる卑怯者である。