現象学的社会学 (文化人類学叢書)
山内志朗氏はなぜか飛ばしているが、「存在の一義性」についてとことん考えた哲学者は、フッサールである。彼は初期には存在の自明性を「括弧に入れる」手法として現象学的還元を考えたが、晩年には逆に自明性を説明する概念として生活世界を考えた。彼がその後継者と考えていたのがシュッツである。

シュッツの出発点はウェーバーで、彼の社会学が認識論的にはお粗末な新カント派にもとづいているのを現象学で厳密に基礎づけようということだったが、次第に独自の現象学理論を構築するに至る。その全貌は、主著"Structures of the Life-World"を読まないとわからないが、本書は社会学者でもわかる論文集である。
ウェーバーの宗教社会学の鍵になっているのは「他者理解」である。異なる宗教に出会うとき、研究者はそれを理解不能な「呪術」として片づけがちだが、彼らの文化の中に内在すれば、その必然性を理解できる。その際に大事なことは、彼らにとって何が有意(relevant)かという関心の所在である。

われわれを取り巻く世界は、大きくわけて有意な(意識される)世界と所与の(意識されない)世界にわけられる。カーネマン的にいうと、前者がシステム2、後者がシステム1だが、世界観を理解する上で重要なのは後者がいかに構成されているかである。有意な世界は、人々の日常生活の中で類型化(フレーミング)され、所与の世界に沈んでゆく。

ここで所与とされる概念や言語は一義性をもち、その意味は時間的に継承されて制度化される。いったん既成事実になると、それは多くの人が信じるがゆえに信じるというループに入って自明性をもつ。これは自然なメカニズムではなく、たとえば紙幣のようなオブジェクトに価値を認めることは、自閉症の患者にはきわめて困難である。その価値は、対象ではなく人間関係に依存しているからだ。

シュッツの理論は、一時「多元的現実」を強調するものとして流行したが、彼の研究の対象はむしろ本源的には多様な現象から一義的な自明性がどのように生まれるかという問題だった。これを彼はウィリアム・ジェームズの至高の現実という言葉を借りて考える。

至高の現実とは、抽象的で高度な概念のことではなく、誰も疑わない「感覚の下位世界」である物理的な事実のことだ。あなたの前にあるモニターは、あなたの意志とは無関係に存在するし、あなたが死んでも存在するだろう。誰もその自明性を疑わないとき、そこには最高度の超越性があるのだ、とシュッツはいう。

この定義で考えると、日本人が超越性を知らないというのは逆で、われわれの生活は「至高の現実」に満ちている。日本人は他人と濃密に意味を共有し、意識的な契約や命令を必要としないため、日常生活はきわめてスムーズに進行するが、外国人にはそれが参入障壁になる。日本社会は、山本七平の言葉でいえば「臨在感」という超越性に満ちているのだ。

シュッツの理論は抽象的だが、のちにバーガー=ルックマンやエスノメソドロジーなどに継承された。行動経済学や脳科学などの知見とあわせれば、社会科学の基礎理論として使えるかもしれない。実は、私の卒業論文もシュッツの経済学への応用だった。