近世百姓の底力―村からみた江戸時代 (日本歴史私の最新講義)
アゴラでも書いたように、日本の電機産業は崩壊の危機に瀕している。これを技術開発の問題と錯覚して官民コンソーシャムを乱造しても、状況はかえって悪化する。どこに問題があるかは、経営者も社員も知っている。なぜわかっていることができないのかが問題なのだ。

それは日本の企業が、本質的には江戸時代と変わらない村落共同体だからである。これは昔からいわれてきたことだが、本書のような最近の研究で村(惣村)を維持するメカニズムが明らかになってくると、現代の企業との類似性にあらためて驚く。
戦国時代の村は貧しく、人口の流動性も大きかったが、江戸時代になって生活が安定すると「勤勉革命」で労働生産性が向上し、新たな土地の開墾も増えて、17世紀には人口が急増した。この生産の単位になっていたのは、家ではなく村だった。

村の中核となったのは、百姓(惣百姓)である。これは各戸から1人ずつ選ばれて成年男子に限られ、メンバーに加入するには他の百姓の承認が必要だった。彼らは寄合で民主的に意思決定を行ない、庄屋(名主)もその決定を尊重した。百姓は、江戸時代の「正社員」だったのである。

年貢は村請で村ごとに課税されたので、村は自治体だった。税負担を村内でどう分配するかは庄屋の裁量だったが、これも百姓が承認しないと課税できなかった。また村内の紛争や土地の移転などの問題も、百姓が管理した。村はボトムアップの「労働者管理企業」だった。

17世紀の農業経営はまだ不安定で、破綻して飢えに直面する家も少なくなかったので、土地を担保にして金を貸す相互扶助が発達した。こうした金融機能や土地などの生産要素の配分も、百姓の合意によって行なわれた。債務不履行には厳格な処罰が行なわれたが、質流れになった土地も百姓の承認を得れば取り戻すことができた。

各藩は村の自治を尊重し、紛争は村同士の話し合いで決めるのが原則だった。しかし村と村の間で入会地などをめぐって訴訟が起こると、村役人から郡奉行に伺いが出され、彼が家老に伺いを出し、稟議書で承認された。ここでも徹底してボトムアップで問題が解決された。

しかし18世紀になって長い平和と労働生産性の向上で飢えから解放されると、村の中で家の自律性が高まり、百姓の力が弱まる。土地も各戸ごとに分割され、近代的な所有権に近くなったが、百姓は村にしばりつけられていたので、これが労働生産性向上の限界になった。18世紀に人口増加は止まり、村は停滞期に入る。

印象的なのは、上の文章で百姓→正社員、村→会社、村役人→官僚などと置き換えると、現代にほとんど同じ行動様式が温存されていることだ。長時間労働によって効率は極限まで高められ、相互扶助で分配の平等も守られ、ボトムアップでローカルな意思は尊重されるが、全体最適は誰もみていない。

ここでは村や藩の境界を厳格に守る非流動性が、秩序維持のメカニズムになっている。この習性はゲーム理論的にも合理的だが、遺伝的なものとは考えられない。このミーム(文化的遺伝子)が現代まで継承されているのは、こうした「空気」に同調しない人々が「村八分」になる(会社では出世できない)社会的淘汰によるものと思われる。

しかも厚労省は百姓の地位を守るために労働人口の流動化を禁じて労働生産性を停滞させ、経産省は村の構造を変えないで「殖産興業」で秩序を維持しようとしている。幕末の村は開国という外圧で破壊されたが、日本型企業システムはどういう形で崩壊するのだろうか。