ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)
日本人はニーチェが好きだ。『超訳 ニーチェの言葉』などという偽書が、100万部も売れたりする。「神は死んだ」という彼の宣言は、西洋ではタブー(日本の天皇のタブーに近い)だが、日本人にとっては何の不思議もない。しかしもともと神が存在していない日本では、彼の苦闘は理解できない。

他方、哲学的には木田元氏のように、ニーチェはハイデガーやポストモダンと重ねて、存在論として理解されてきた。著者はそういう読み方は間違いだという。ニーチェは文字通りキリスト教の神を否定したのであり、ヨーロッパのニヒリズムを批判したのだ。それは特殊西洋的な宗教の西洋人による批判であり、彼らにとっては生活の中できわめて重要な問題だった。
「神の死」の中心にあるのは「最高の価値の喪失」ではなく、もっと具体的なこと、もっと切実なこと、すなわち「神はもともと死んでいる」とすれば、死後の生命はないということ、あらゆる人間は死して後まったくの無になるのであり、それが永遠に続くということである。(p.25、強調は引用者)
宗教は社会学的には人々の感情を同期させる装置だが、個人からみると苦しいときにすがる救済のよりどころである。それも死という最大の苦しみを救ってくれる宗教が魅力的だ。あの世で永遠に救われるなら、現世利益よりもはるかに大きな御利益がある。

そういう約束をしたのがパウロだった。彼は民衆のルサンチマンに訴え、「罪深い者こそ救われる」という逆説的な教えを広めた。イエスが彼らに代わって十字架にかかり、罪を贖ったからだ。不幸な人々や貧しい人々は、自分こそ最初に天国に入れると考えて熱狂的にキリスト教を支持し、それは民族を超えた普遍的な宗教になった。

しかしニーチェは、これを奴隷道徳として攻撃した。弱者が弱いがゆえに救われるというのは嘘であり、パウロは詐欺師である。だがニーチェは、イエスは高く評価していた。
すでにキリスト教という言葉が、一つの誤解だ。突き詰めていけば、キリスト教徒はたった一人しかいなかった。そしてその人は十字架につけられて死んだのだ。[…]以後「福音」と呼ばれたものは、この人物が身をもって生きたものの反対物だった。(『反キリスト者』39節)
イエスは高貴な価値に殉じたが、パウロはそれを「十字架で人類の罪を救済した」という奴隷道徳にすり替えた。このように現世を否定するパウロ主義を徹底すると、神の存在も否定するニヒリズムになってしまう。これがヨーロッパに固有の病であり、贖罪の概念も知らない日本人とは無縁なのだ。

このようなニーチェの批判は明快だが、それに代わって彼が定立しようとした「力への意志」とか「永遠回帰」というのは意味不明で、とてもキリスト教の代わりにはならない(永遠回帰は本書も「取るに足りない」と評している)。逆にいうと、そういう無意味なスローガンを無視してパウロ主義批判として読めば、ニーチェは今でも価値がある。