道徳の系譜学 (光文社古典新訳文庫)
かつて「国際経済」といわれたものが最近は「グローバル資本主義」といわれるが、この違いは大きい。国際関係は主権国家が管理できるが、グローバル化は国境と無関係に進む。たとえば昔の国際電話は国境で高い料金を取っていたが、今はインターネットでユーザーは国境を意識しない。

同じことが、政治にも起こりつつある。主権国家の利害調整を行なうために国際機関ができたが、今の国連は調整機関として機能していない。この原因は、グローバル社会には主権が存在しないからだ。主権国家は定義によって「それより上位の権力をもたない」ので、国際法も条約も国家権力のenforcementをもたない「紳士協定」にすぎない。
こういう無政府状態は、ニーチェの予告した「来るべき200年のニヒリズムの時代」がグローバルに到来したことを示すのかも知れない。彼がいうように、人間のもっとも重要な特徴は約束できる動物だということだ。それなしには、人類はホッブズ的な囚人のジレンマに陥って自滅しただろう。

しかし約束違反を罰するだけでは、社会は維持できない。そこでやましい良心が発生し、それを共有することで辛うじて社会は維持されてきた。ゲーム理論でいう長期的関係である。しかしこの均衡は、公然と裏切る者が出てくると維持できないので、人々の上に立って彼らを監視する国家権力が必要になる。

この権力はおのずから集中し、国家の都合のいいように法秩序を決める。これに対して弱者はルサンチマンを抱き、自分たちは虐待されているがゆえに「よき者」だと考える。これをニーチェは猛禽と子羊にたとえる。子羊は猛禽に食われる弱者であることを自由意志で選択したと考え、食われるときも自分は正しいので神の国に召されると信じて死んでゆくのだ。
この種の人間は、際限ない選択の自由をもつ「主体」というものを信じることを必要としているのだが、こうした本能では、どんな嘘でも神聖なものとされるのだ。主体がこれまで地上で最善の教義だったが、それはこの教義によって死すべき人間たちの大多数、あらゆる種類の弱者と抑圧された者たちが、弱さそのものを<自由>として解釈する崇高な自己欺瞞に満足できるようになったからに他ならない。(p.76)
この自己欺瞞を集大成したのがキリスト教である。そこでは「貧しい者が最初に天国に入る」と教え、ルサンチマンを国家権力に向けるのではなく救済のしるしとし、それを教会が「司牧」として管理した。

この自己欺瞞は、西洋の弱者を2000年近くにわたって欺き続けてきた。世の中の大部分の人は不幸なので、不幸こそ救済のしるしで、あの世では逆転すると教えるキリスト教は強烈なイノベーションだった。この世は短いがあの世は永遠なので、多くの信徒がみずから戦争に身を投じ、「奴隷の反乱」が近代国家を生んだ。

しかしこの教義はきわめて特殊西洋的なもので、ウェーバーもいうように論理的に突き詰めると無神論になってしまう。「自立した個人」や「独立した主権国家」というのも、こういう信仰の世俗化した形態であり、超越的な中心がないと機能しない。もともと中心のないグローバル秩序においては、こうした信仰を共有しない「異分子」が出てくると、秩序は崩壊してしまう。

中国の統治機構は、こういう西洋の奇妙なシステムとは違い、優秀なエリートが無知な大衆を支配するメリトクラシーである。これは合理的で、やましい良心も超越的な中心も必要としない。力こそ正義であり、その逆ではない。こういう国と対決するとき、国家機密や手の内をさらして「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」問題が解決すると信じる子羊は、猛禽に食われてしまうだろう。