ヘーゲルとその時代 (岩波新書)
今週のメルマガにも書いたことだが、本は後ろから読むというのが私の読書術である。ヘーゲルの『精神現象学』は、最初の「意識」の章から読むと何を言っているのかさっぱりわからないので、たいていの人は投げ出してしまうだろうが、最後の「宗教」の章は驚くほどわかりやすい。これはヘーゲルの宗教論なのだ。

本書もここに注目し、19世紀初頭のドイツの政治的状況からヘーゲルのテキストを読み解く。20代でフランス革命に熱狂したヘーゲルは共和主義者だったが、ナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が崩壊すると、「ドイツはもはや国家ではない」と嘆いて、「ドイツ国制論」という草稿を書き、それを再建するための「国のかたち」を模索する。
ここでヘーゲルは共和制を脱却し、強い君主のもとに領邦を統一する「帝国」の建設が祖国を混乱から救う道だと考える。そのためには、まず宗派対立を収拾し、キリスト教を統一する必要がある。それが『精神現象学』の執筆動機だった。ここでは父と子と聖霊の三位一体という正統派の教義が、さまざまな宗派を超える「弁証法的統一」であることを論証しようとする。

だから「正・反・合」のトリアーデには大した意味がないのだが、彼はカトリック・プロテスタントがともに認める三位一体説が分裂した祖国を統一する思想だと考え、これを弁証法と名づける。『精神現象学』はその図式で認識論を書く最初の試みだが、複雑な問題をトリアーデの入れ子構造に押し込んでいるので、必要以上に難解になってしまった。

これがもっとこなれたのが『法哲学綱要』で、ここでは家族・市民社会・国家というトリアーデによって政治と宗教の分離が理論的に基礎づけられ、自由主義的な国家の理論が生まれた。ポパーが「全体主義の元祖」と攻撃したのとは逆に、ヘーゲルは近代の自由主義の元祖なのだ(ロールズもヘーゲルをこう位置づけている)。

ヘーゲルの自由主義は『歴史哲学講義』では明確になり、「世界史は自由の歴史における進歩である」とか「自由とは必然性の認識である」という哲学が展開される。ここで最大限の自由を実現するのがプロイセン帝国だとしたことが「御用学者」と嘲笑されるが、ヘーゲルは宗派対立を終わらせて帝国を実現したプロイセンに期待していた。

ここまではいいのだが、本書は最後の30ページでヘーゲル以降の200年を要約し、マルクスとレーニンを一からげにして批判する一方、「グローバル化」や「新自由主義」を攻撃して終わる。著者は理解していないが、マルクスのコミュニズムこそヘーゲルの自由主義の論理的帰結であり、それを実現したのがグローバリゼーションなのだ。

グローバリゼーションが多くの問題を引き起こしていることは事実だが、その元祖はヘーゲルである。自由な個人の財産権を原則とし、国家の介入を例外と考えた彼は、アダム・スミスの影響を強く受け、イギリスのような市民社会に憧れていた。それを継承して国家なき市民社会を追求したのがマルクスだった。

その理想はロシア革命という脱線で否定されたようにみえるが、自由主義の伝統はハイエクやフリードマンに引き継がれた。著者は認めたくないようだが、世界経済に占める貿易や国際資本移動の比重は加速度的に増えており、グローバリゼーションを元に戻すことはできない。もうパンドラの箱は開いてしまったのだ。

自由主義に限界があるとすれば、「人間は自由である」という前提が証明できないことだろう。「自由」は西洋に固有の概念で、やまとことばにはこれに対応する言葉もない。最近の脳科学の実験が示すように、自由意志というのは「自由に行動している」と感じる錯覚であり、実際の行動のほとんどは無意識に行なわれている。

人間は自由ではないが、そう感じることは必要である。そうでなければ、ヘーゲルのいうように国家と市民社会の境界線が引けないからだ。「自己責任」も「財産権」も幻想だが、近代国家を成り立たせる上で必要な幻想なのである。