アゴラの書評にちょっと補足。国家が土台で経済が上部構造だとすると、その土台を決めるものは何だろうか。バーマンは「広い意味での宗教や慣習」だと言っている。つまりキリスト教や儒教などの思考様式の違いが「国のかたち」を決め、それが経済を支えると考えることができる。
国家は、むき出しの暴力だけでは長期にわたって維持できない。大事なのは、その正統性をどうやって担保するかである。この問題に最初に直面した中国は、官僚を全国民から選抜するメリトクラシー(能力による統治)で解決しようとした。科挙の試験は、一つの会場に16000人もの受験生を集めて公開で行なわれ、その採点は名前を隠して筆跡もわからないようにすべて筆写し、厳正に行なわれた。

字も読めない民衆は、この試験を見て「あんなむずかしい試験を通った賢い人の言うことには間違いないだろう」と思って従う。科挙で選ばれる官僚は、3年に1度で300人ぐらい。つまり全体でも3000人程度だから、人口3万人に1人ぐらいの超エリートだった。

科挙で問われるのは行政能力ではなく、古典の暗記や詩作、つまり文書能力だった。中国の方言はバラバラで地方が違うと聞き取れないが、漢字は同じだ。だから漢字は、特権階級しか読めない暗号であると同時に、普遍的な知性の象徴だった。その意味では、きわめて合理主義的な官僚制度が6世紀にはできたわけだ。

日本は東アジアで科挙を輸入しなかった珍しい国である。その理由は『ロスト・モダニティーズ』の解説を書いた猪口孝氏によれば、武士による軍事政権だったからだという。ここでは正統性の源泉は知性ではなく武力であり、武士はもともとは野盗みたいなものだから、学問はほとんど身につけていなかった。

軍政が700年近く続いた国も珍しい。独立の法と税制をもつ300の「国家」が狭い国土に分立しながら、300年近く戦争が起こらなかった江戸時代は世界史上の奇蹟である。その土台にあったのは、村請の自己完結的な村落共同体だった。このタコツボ構造が強固だったために、強大な暴力装置も宗教的な権威もなしに、秩序が維持できたのだ。

しかしこの「江戸時代的」な停滞で、西洋と経済力で大差がついてしまった。そこで明治期に大陸の官僚制度を輸入したのだが、その中身は科挙に近かった。つまり中国から1400年ぐらい遅れて「中国化」し、ペーパーテストによる厳格なメリトクラシーを導入したのだ。これは初期の科挙と同じく成功した。東大法学部でもっとも優秀な学生は役所に行き、その次が学者になったので、政治と学問の距離が近く、開発主義的なインフラ整備に向いていた。

だから官僚の権威を支えているのは国家権力でも法律でもなく、東大法学部を頂点とする文書能力のピラミッドなのだ。この日本型メリトクラシーはボトムアップのデモクラシーとは逆の統治手法だが、その欠点は民衆との距離が遠いことである。科挙官僚もこの問題に悩み、中間集団をつくろうとしたがうまく行かず、科挙は形骸化して中国は衰退した。

日本では中間集団の求心力が強いため、官僚は業界団体を通じて権力を維持できたが、メリトクラシーの弱点は国民の文書能力が上がるとインテリの稀少価値がなくなることだ。東大法学部の権威が落ちると、民衆との距離が近い政治家やマスコミが介入して、ますます政治は混乱する。日本の政治が劣化する一つの原因は、このような知的権威の喪失だろう。