ゆうべの記事の続きのメモ。「第二イザヤ」と呼ばれる預言者が存在したらしいことは古くから知られており、ウェーバーの『古代ユダヤ教』でも、その神義論がバビロン捕囚以前と違うことが強調されている。
捕囚の悲惨のなかで第二イザヤは、その普遍主義的な神観を最終的帰結にもたらし、そのことによってそれらの思想を最終段階にもたらしたのであった。[…]ヤハウェのみがこの世界の創造者であり、世界史の支配者であって、この世界の過程はヤハウェの隠された計画のもとに行なわれるのである。(みすず書房版p.564)
ヤハウェはユダヤの神ではなく世界全体の神であり、彼の計画によって世界は最後まで決定されている。そして彼はイスラエルの民に屈辱的な運命を与え、それに屈することなく信仰を守ったものだけが救われるのだ。このように悲惨を救いとみなす倫理は、新約の「山上の垂訓」とほとんど同じだ、とウェーバーは指摘する。
貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。
飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。
もちろんこれはイエス(というか福音書の作者)が第二イザヤの影響を受けたのだろうが、人が義とされるのはユダヤ教ローカルの律法によってではなく信仰によってであるという普遍主義は、まったく文化的背景の違う古代ローマで布教したパウロの武器だった。

このロジックは合理主義的だが、自分の苦しみが救済の根拠だという逆説的な教えは、一般の信徒にはほとんど理解できなかっただろう。彼らは次第に初期キリスト教の合理主義を捨て、カトリック教会が世俗的な権力をもつに至る。そこに地中海の異教との混合によって偶像崇拝や聖母崇拝などの多神教的な要素が混入することは避けられなかった。

これをパウロ的な合理主義に「純化」しようとしたのが、プロテスタントである。人は信仰のみによって義とされるというルターの主張は、第二イザヤに近い。彼が出てきた16世紀には、戦争や疫病が繰り返される中で人々が難民化し、ローカライズされたカトリック教会より普遍主義的な初期キリスト教のほうが布教しやすかったのだろう。

カルヴァンはこれをさらに進め、他の宗派を政治的・軍事的に弾圧した。多くの人が指摘するように、彼の不寛容な政治手法はレーニンとよく似ているが、それが社会主義のような悲惨な結果にならなかったのは、資本主義が結果的に人々に富をもたらしたからだ。

しかしカルヴァンの論理が普遍的なのは、ヤハウェが存在するという前提を認める限りにおいてである。ウェーバーも指摘したように、カルヴァン派の全面的な現世否定から神という前提が失われると、無神論まではほんの一歩だ。
合理的・経験的認識が世界を呪術から解放してしまうと、現世は神が秩序をあたえた倫理的な意味づけをおびる世界だ、といった倫理的要請との緊張関係は、いよいよ決定的となる。なぜなら経験的で数学的な世界の見方は、原理的に現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方を拒否する態度を生み出すからである。(「世界宗教の経済倫理 中間考察」p.147、強調は原文)
ここでウェーバーが「キリスト教がニヒリズムを生み出した」というニーチェの影響を受けていることはよく知られているが、それは論理的な必然だった。むしろ第二イザヤからニーチェまで2400年もかかったのが不思議だが、世界に意味がないという事実を人々が認めるまでには、それぐらい長い時間が必要だったのだろう。

そして世界から意味を脱色し、実験と観察のみに依拠する近代科学が、唯一のドグマとして持ち続けたのが普遍主義だった。ここで通用する物理法則は地球全体でも通用するという根拠のない信仰が、近代科学を支えたのだ。なぜ世界に法則があるのか、と問うのは無意味である。なぜなら、この世界には意味も根拠もないからだ。