一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか (筑摩選書)
一神教の誕生は、おそらく世界史上最大の事件の一つである。ウェーバーやデュルケームなど初期の宗教社会学では、キリスト教を典型的な「宗教」と考え、それ以外の民俗信仰を「呪術」としたのだが、これは逆だ。世界的にみても日本のような部族信仰が圧倒的な多数派で、一神教は古代ユダヤに1回だけ起こった「突然変異」である。

その教義は、全世界の人々を唯一の神が支配しているが姿は見えないという荒唐無稽なものであるにもかかわらず、今では世界の人口のほぼ半分が一神教徒だ。この奇妙な信仰はどこから生まれたのだろうか?
宗教はもともとローカルな信仰なので、一つの部族の中で一つの神を信じる拝一神教は珍しいものではない。ここでは他の部族は別の神を信じていることが前提されており、部族が統合されると神も統合される。このような形で多くの部族が集まったイスラエルの民に広く信じられるようになったのが、ヤハウェという神だった。

これが他の神をいっさい認めない唯一神教になった原因は、本書によれば紀元前6世紀のバビロン捕囚にさかのぼるという。それまでヤハウェを信じていたイスラエルの民は、バビロニアに征服され、民族が丸ごと捕虜になったことで信仰の危機に直面した。人々の戦争は神々の戦争でもあり、ヤハウェが異教徒の神に敗れたということは、その信仰が誤っていたことを意味するからだ。
 
ここで出現した(第二イザヤと呼ばれる氏名不詳の)預言者が「異教徒の神を信じてはならない」と説いた。このとき彼は、ヤハウェはイスラエルの神ではなく世界に唯一の神であるという革命的な発想で彼らの境遇を説明した。ヤハウェはバビロニアの神に敗れたのではなく、ヤハウェとの契約に背いたイスラエルの民を罰したというのだ。これはその後、旧約聖書の基本思想となる。
主はあなたとあなたが立てた王とを携えて、あなたもあなたの先祖も知らない国に移されるであろう。あなたはそこで木や石で造ったほかの神々に仕えるであろう。[…]あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたにつかわされる敵に仕えるであろう。(申命記28章
同じ時期に、偶像崇拝をきびしく禁じる預言が繰り返される。これはヤハウェの超越性から論理的に導かれたものではなく、当初はバビロニアの神を禁じるものだった。捕虜になった人々のまわりにある偶像を否定し、不可視のヤハウェだけが世界に一つの神だと教えることで、彼らは辛うじて信仰を守ることができたのだ。

これがウェーバーのいう苦難の神義論である。人々が虐殺されたり奴隷にされたりする不条理に出会ったとき、それを逆に「神罰」ととらえることによって合理化する。この論理によれば、おかした罪が大きく神から受けた罰が大きいほど、それを償うことによって天国で救済されるチャンスが大きくなる。

贖罪にこだわる教義はユダヤ教に固有のものだが、彼らの長い苦難の歴史を合理化する唯一の論理だったのだろう。結果的には、第二イザヤの預言の通りペルシャ王キュロスがバビロニアを征服してイスラエルの民は解放され、60年近い捕囚の時代は終わった。これによって彼らの信仰は強められ、領土をもたないイスラエルの民の自己同一性を保つ機能を果たした。

唯一神は、このようにバビロン捕囚の時代に無名の預言者によってつくられたと推定されるが、ここではヤハウェはイスラエルの民の神でしかなかった。これを異教徒も含むすべての人類の神に昇格させ、ヤハウェを信じる者はひとしく救われると説いたのがイエス・キリスト(厳密にいうとパウロ)である。

しかし旧約聖書の中にも、異邦人もヤハウェを信じれば救われるという教えはみられる。ここからルターまでは一直線であり、その現世否定を徹底したとき、神の存在を否定する無神論が出てくることも必然だった。近代科学の飛躍的な発展は、一神教の教義がたまたまニュートン力学と一致したという偶然によるものだ。人類史の決定的な分水嶺は、今から2500年前のバビロン捕囚にあったのかもしれない。

本書のテーマは非常に重要だが、文献学的トリビアに埋もれているのは惜しい(ほとんどの人は前半で投げ出すだろう)。最後に出てくる唯一神教という「革命」に焦点を絞った本を書き直したほうがいいと思う。